トンイの貞聖王后はしとやかな娘、ヘチの貞聖王后は気の強い両班の娘として登場します。
史実の貞聖王后はどんな女性だったのか。
貞聖王后の家系図から詳しく調べてみました。
貞聖王后の家系図
貞聖王后(チョンソンワンフ)の家系は高麗時代に奉翊大夫・版圖判書を務めた徐晉を始祖とする達城徐氏(タルソンソシ)の一族です。
達城徐氏は利川徐氏(始祖は徐神逸)からの分派で朝鮮時代に多くの名臣と学者を輩出した名門氏族として栄えました。
<貞聖王后の家系図>
しかし、祖父の徐文道(ソ・ムンド)は正6品の掌隷院司評という官職、父親も進士(チンサ)で貞聖王后の家は名家ではなかったようです。
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貞聖王后はどんな王妃だったのか?
史実の貞聖王后(チョンソンワンフ)は温厚で寛大な性格だったと言われています。
残念ながら貞聖王后自身には子供ができませんでした。
しかし、側室だった暎嬪李氏の息子(荘献世子)や靖嬪李氏の息子(孝章世子)を実の子のように可愛がったといいます。
また、荘献世子の正室だった恵慶宮は自身が書いた「恨中錄」の中で貞聖王后が優しく、自分の身内にも親切だったと記録しています。
貞聖王后のプロフィール
貞聖王后は王妃の在位期間が33年間と朝鮮王朝では最長の在位期間でした。
生年:1693年12月27日
没年:1757年3月26日
在位期間:1724年〜1757年
配偶者:英祖
子女:なし
氏族:達城徐氏
父親:達城府院君 徐宗悌
母親:岑城府夫人 李氏
御陵:弘陵
貞聖王后の生涯
貞聖王后は若くして、延礽君(後の英祖)と結婚します。
年 | 出来事 |
1692年 | 父・徐宗悌と母・岑城府夫人李氏の間に生まれる |
1704年 | 延礽君と婚礼をあげ、達城府夫人に封じられる(13歳) |
1721年 | 延礽君が王世弟に冊封されると、彼女は王世弟嬪となる(30歳) |
1724年 | 延礽君が英祖として即位すると、王妃に冊立される(33歳) |
1740年 | 恵敬(ヘギョン)という尊号が贈られる |
1757年 | 昌徳宮(チャンドックン)大造殿にて65歳で亡くなる |
義母の仁元大妃も貞聖王后が亡くなってから1ヶ月後に亡くなっています。
仁元大妃は粛宗の3番目の王妃で夫・英祖を窮地から救い、王になることを支援してくれた人でした。
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貞聖王后の家族
貞聖王后には2人の兄と2人の姉、そして1人の妹がいました。
関係 | 名前 | 生年ー没年 | 備考 |
父 | 徐宗悌 | 1656-1719 | 達城府院君 |
母 | 牛峰李氏 | 1660-1738 | 岑城府夫人 |
長男 | 徐命伯 | 1678-1733 | 吏曹判書を追贈 |
次男 | 徐命休 | ||
長女 | 不明 | 李重慶の妻 | |
次女 | 不明 | 申正集の妻 | |
四女 | 貞聖王后 | ||
三女 | 不明 | 林蘧の妻 | |
夫 | 英祖 | ||
子供 | なし |
兄の息子の 徐徳修は辛壬士禍で処刑されました。
兄の徐命伯は流罪となりましたが、英祖が即位したときに釈放されています。
貞聖王后の父親
貞聖王后が結婚した当時、父親の徐宗悌は進士(チンサ)だったことが記録されています。
延礽君昑, 娶進士徐宗悌女
延礽君の昑(クム)が進士である徐宗悌の娘を娶った
<引用元:粛宗実録1704年2月21日>
進士とは官僚になる為の試験である科挙の小科合格者の事です。
家族を襲った悲劇
1721年に貞聖王后の家族に最大の危機が訪れました。
辛壬士禍(シニムサファ)と呼ばれる少論による老論への大規模な粛清です。
延礽君を押す老論派は景宗に子供ができなかったことを理由に延礽君を王世弟にしました。
更に、老論の四大臣は延礽君に代理聴政をさせることを主張しました。
しかし、少論も黙っていませんでした。
代理聴政を進める過程での景宗に対する不敬・不忠を謀反として上訴し、老論派への徹底的な攻撃を始めます。
この弾圧は8ヶ月にも及び170人以上もの人が死罪や流刑になりました。
英祖と貞聖王后も窮地に立たされ、仁元王妃に助けを求めました。
しかし、貞聖王后の兄の徐命伯は流罪となり、兄の息子の徐徳修は処刑されてしまいます。
貞聖王后が出るドラマ
貞聖王后は大人しく、目立ったエピソードもないため、ドラマへの登場も多くはありません。
トンイに出てくるエピソードの「徐宗悌の家が王気の流れる家」というのはもちろんフィクションです。
大王の道(1998年、ムン・イェジ)
トンイ(2010年、チョン・モレ)
仮面の王 イ・ソン(2017年、キム・ソンギョン)
ヘチ 王座への道(2019年、チェ・スイム)
( )内は演じた女優
まとめ
貞聖王后の一族の達城徐氏は多くの名臣と学者を輩出した名門氏族でした。
しかし、貞聖王后の家は父親の徐宗悌は進士、祖父も官位の低い官職で決して名家ではなかったようです。
貞聖王后が王妃になったときには、家族は老論への大規模な粛清の巻き添えになり一族が繁栄することはできませんでした。
65歳と長生きしましたが、子供もなく、生涯、目立ったエピソードもありませんでした。
英祖が入る予定だったお墓の隣は、今も空いたままの状態です。