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貞聖王后の家系図【英祖の王妃・最長在位33年の史実】

トンイの貞聖王后はしとやかな娘、ヘチの貞聖王后は気の強い両班の娘として描かれています。では、史実の貞聖王后とはどのような女性だったのでしょうか。

この記事では、貞聖王后の家系図を手がかりに、その出自、人物像、生涯を史実をもとに詳しく解説します。

貞聖王后の家系図

貞聖王后(チョンソンワンフ)は、高麗末期の文臣・徐益進を中始祖とする氏族・大邱徐氏(大丘徐氏)の出自です。

※大邱は史料では「大丘」と表記されている場合があります。

大邱徐氏の始祖は徐閈で、利川徐氏(始祖は徐神逸)から分派した一族と伝えられています。

貞聖王后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<貞聖王后の家系図>

大邱徐氏は多くの高官を輩出した朝鮮を代表する名門氏族です。しかし、祖父・徐文道は正六品の掌隷院司評、父・徐宗悌も科挙小科合格者である進士にすぎませんでした。つまり、貞聖王后は名門氏族の出身でしたが、直系家族の官位は高くなく、政治的後ろ盾が弱い立場の王妃でした。

ドラマ「トンイ」に出てくるエピソード「徐宗悌の家が王気の流れる家」という逸話はドラマの創作です。

<豆知識>達城徐氏と大邱徐氏
達城徐氏と大邱徐氏は、いずれも利川徐氏から分派した氏族とされますが、分派した時期や系譜については明確に考証することができないとされています。過去には両派が共同で族譜を編纂しようとした経緯もあり、その影響から本貫が混用された例も見られます。
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貞聖王后はどんな王妃だったのか

史実の貞聖王后(チョンソンワンフ)は温厚で寛大な性格だったと言われています。荘献世子の正室だった恵慶宮は自身が書いた「恨中錄」の中で貞聖王后が優しく、自分の身内にも親切だったと記録しています。

貞聖王后はお母さまを引見して、恩典をお与えになることがまことに丁寧で、応接なさる様子はご自分の家族に対するようであった。
<恨のものがたり 梅山秀幸訳より抜粋>

残念ながら貞聖王后自身には子供ができませんでしたが、側室だった暎嬪李氏の息子(荘献世子)や靖嬪李氏の息子(孝章世子)を実の子のように可愛がったといいます。

貞聖王后のプロフィール

貞聖王后は王妃の在位期間が33年間と朝鮮王朝では最長の在位期間でした。

<プロフィール>
生年:1693年12月27日
没年:1757年2月15日(享年65歳)
在位期間:1724年〜1757年
御陵:弘陵
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貞聖王后の家族

貞聖王后には2人の兄と2人の姉、そして1人の妹がいました。兄の子・徐徳修は辛壬士禍で処刑されました。兄・徐命伯は流罪となりましたが、英祖が即位したときに釈放されています。

関係 名前 生年ー没年 備考
徐宗悌 1656-1719 達城府院君
牛峰李氏 1660-1738 岑城府夫人
徐命伯 1678-1733 吏曹判書を追贈
徐命休 不詳
不詳 不詳 李重慶の妻
不詳 不詳 申正集の妻
不詳 不詳 林蘧の妻

貞聖王后の父

貞聖王后が結婚した当時、父・徐宗悌は進士(チンサ)だったことが記録されています。

延礽君昑, 娶進士徐宗悌女
延礽君の昑(クム)が進士である徐宗悌の娘を娶った
<引用元:粛宗実録1704年2月21日>

進士とは官僚になる為の試験である科挙の小科合格者の事です。

辛壬士禍|家族を襲った悲劇

1721年、朝廷では王位継承問題をめぐり、延礽君を支持する老論と、これに反発する少論が激しく対立。やがて対立は辛壬士禍へと発展し、少論による老論への大規模な粛清が始まりました。英祖と貞聖王后も窮地に立たされ、仁元王后に助けを求めています。

この弾圧は8ヶ月にも及び170人以上もの人が死罪や流刑となり、貞聖王后の兄・徐命伯は流罪。兄の息子の徐徳修は処刑されています。

貞聖王后の生涯一覧表

貞聖王后は若くして、延礽君(後の英祖)と結婚します。

年齢 出来事
1692年 1 徐宗悌の三女として生まれる
1704年 13 延礽君と婚礼する
1721年 30 延礽君が王世弟に冊封。王世弟嬪となる
1724年 33 延礽君が王に即位。王妃に冊立される
1740年 49 恵敬(ヘギョン)という尊号が贈られる
1757年 65 昌徳宮大造殿で逝去

義母の仁元大妃も貞聖王后が亡くなってから1ヶ月後に亡くなっています。

貞聖王后の最期

貞聖王后は1757年2月15日、65歳で亡くなっています。英祖実録には次のように記されています。

申時、中宮殿徐氏昇遐于觀理閤
<英祖実録:英祖33年2月15日条>

<訳>申の刻に、中宮殿徐氏が観理閤において薨去した

前日に、突然、体調を崩して吐血していました。

中宮殿違豫, 藥房移直廚院。 時坤殿因吐血, 元氣卒陷, 連進蔘茶, 少無動靜, 上下遑遑
<英祖実録:英祖33年2月14日条>

<訳>中宮殿が体調を崩し、薬房は直ちに厨院へ移って宿直した。このとき中宮殿は吐血によって急激に元気がなくなり、人参茶を続けて進めたが、まったく快方の兆しはなく、宮廷にいるすべての人々が動揺した。

まとめ

達城徐氏は名門氏族でしたが、貞聖王后の直系家族は官位も低く、政治的な立場の弱い家でした。さらに辛壬士禍によって一族は大きな打撃を受け、外戚として勢力を築くこともできませんでした。

そのため彼女は33年という最長在位を誇りながらも政治の表舞台に立つことはなく、英祖を静かに支えた王妃だったといえます。しかし、英祖と並ぶはずだった陵墓の隣は現在も空いたままとなっています。

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