奇皇后のタファンのモデルは実在した元の皇帝トゴン・テムルです。
トゴン・テムルがどのような人物だったのか。
タファンの実在をトゴン・テムルの家系図から詳しく調べてみました。
タファンの実像トゴン・テムルの家系図
タファンのモデルになったトゴン・テムルは、あの有名なモンゴルの初代皇帝チンギス・カンの子孫です。
トゴン・テムルの家系図
トゴン・テムルは元の第11代皇帝(モンゴルの第15代皇帝)に相当します。
モンゴルの国号を元に改めた初代皇帝クビライから数えて6代目の子孫になります。
<トゴン・テムルの家系図>
ドラマ「奇皇后」に登場する皇太后は父親の弟トク・テムルの皇后ブダシルで、トゴン・テムルから見ると叔母さんにあたります。
また、ドラマの最初に病床に伏している男の子が登場しますが、病床にいるのはトゴン・テムルの弟で第10代皇帝のリンチンバルです。
リンチンバルは史実でも即位後、たったの43日で亡くなってしまいました。
トゴン・テムルも父親のコシラも弟が先に皇帝になっていますが、これは、当時の権力者エル・テムルの策略によるものです。
エル・テムルは、ドラマで恐ろしいほど悪役の ヨンチョルです。
弟が先に皇帝に選ばれた理由
父親のコシラはトク・テムルが譲位したことで皇帝になりますが、半年後にエル・テムルによって毒殺されます。
もちろん、ドラマのようにあからさまではありません。
再び、トク・テムルが復位しましたが、3年後に28歳の若さで亡くなります。
実は、トク・テムルは遺言でコシラの息子のトゴン・テムルを後継者に指定していました。
タファンが後継者だったのです。
兄の毒殺に関わった懺悔の気持ちがあったのかもしれません。
<後継争いの関係者>
しかし、エル・テムルは即位後のトゴン・テムルの報復を恐れて、幼少のトク・テムルの息子エル・テグスを即位させようとします。
エル・テグスは小さい頃から、エル・テムルによって実子のように育てられていました。
皇太后ブダシリと武将バヤンはエル・テムルの権力を抑えるために、遺言を盾に反対しました。
そこで、双方の妥協案として、コシラの次男リンチンバルが皇帝に選ばれました。
しかし、
リンチンバルは直ぐに病にかかります。
このリンチンバルが、ドラマの最初に病床に伏していた男の子、タファンの弟です。
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実在したタファンのモデルはどんな人物だったのか?
タファンのモデルとなったトゴン・テムルもドラマのようなひ弱な皇帝だったのでしょうか。
トゴン・テムルの実像を調べました。
トゴン・テムルのプロフィール
トゴン・テムルの父親コシラが殺害されたのは1329年、トゴン・テムルが10歳のころです。
まだ幼いトゴン・テムルは将来の危険人物として、エル・テムルによって高麗に追放されます。
1333年に元に呼び戻され皇帝に即位したのが13歳のときです。
ドラマで元に戻ってきたときは、実はまだ少年だったのですね。
史実では、このとき、実権を握っていた権力者エル・テムルが亡くなりますが、代わってバヤンが権力を独占します。
バヤンの独裁は1340年にトクトによって追放されるまで続きました。
ドラマの武将ペガンは実在したバヤンを、甥のタルタルはトクトをモデルにしています。
やっとバヤンがいなくなると、今度はトクトが権力を掌握していきます。
このようにトゴン・テムルは小さい頃から権力者に操られてきました。
ドラマのタファンがオロオロと周囲に怯える姿は実在のトゴン・テムルと重なる部分があるかもしれません。
モンゴル帝国第15代皇帝
(元の第11代皇帝)
在位:1333年6月8日-1370年4月28日
出生:1320年4月17日
没年:1370年4月28日
配偶者:ダナシリ
バヤン・クトゥク
オルジェイ・クトゥク(奇皇后)
ムナシリ
子女:アユルシリダラ
トグス・テムル
父親:コシラ
母親:マイラダク
トゴン・テムルの家族
トゴン・テムルには4人の皇后と2人の息子がいましたが、2番目の皇后バヤン・クトゥクとの間の子供は2歳でなくなっています。
奇皇后(モンゴル名オルジェイ・クトゥク)との間に生まれたアユルシリダラがトゴン・テムルの後を継ぎました。
関係 | 名前 | 出身 | 備考 |
皇帝 | トゴン・テムル (妥懽帖睦爾) |
||
皇后 | ダナシリ (答納失里) |
バヤウト | エル・テムルの娘 |
子供 | (子女なし) | ||
皇后 | バヤン・クトゥク (伯顔忽都) |
コンギラト | ボロト・テムルの娘 |
子供 | チンキム | 2歳で夭折 | |
皇后 | オルジェイ・クトゥク (完者忽都) |
幸州奇氏 | 奇子敖の娘 |
子供 | アユルシリダラ | ||
皇后 | ムナシリ (木納失里) |
コンギラト | |
子供 | (子女なし) |
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タファンのモデル・トゴン・テムルの生涯
タファンのモデルとなった実在したトゴン・テムルの生涯をまとめました。
史実との違いも触れています。
トゴン・テムルの誕生
トゴン・テムルが生まれる前、父親のコシラは皇位を巡る政略争いに巻き込まれ逃亡していました。
トゴン・テムルの両親は逃亡先のチャガタイ・ハン国で出会っています。
1320年、父親コシラと母マイラダクの間にトゴン・テムルが生まれます。
トゴン・テムルの母マイラダクの家柄はあまり良くなかったようです。
6年後に弟のリンチンバルが生まれますが、リンチンバルの母親はバブシャといい、トゴン・テムルとは母親の違う異母兄弟です。
トゴン・テムルの流刑
1328年に皇帝イェスン・テムルが亡くなると、後継者争いが起こり、父親のコシラはエル・テムルに毒殺されてしまいます。
エル・テムルはトゴン・テムルをコシラの実子ではないとして、高麗の大青島へ追放してしまいました。
更に、史実では遠方の広西の静江府へ追放されました。
<トゴン・テムルの流刑地>
ドラマ「奇皇后」では、高麗の大青島でタファンとスンニャンは出会っていますが、もちろん、史実ではありません。
弟リンチンバルの即位と逝去
1332年、皇位を継いだ父親の弟トク・テムルが亡くなると、弟リンチンバルが即位しました。
先にご紹介したエル・テムルと皇太后ブダシリの権力争いの結果です。
しかし、リンチンバルは病気で直ぐに亡くなってしまいます。
ドラマでは、病床にふすリンチンバルを皇太后が見守るシーンが出てきます。
1333年、トゴン・テムルが流刑地から呼び戻されます。
実在したトゴン・テムルは13歳でした。
トゴン・テムルが元の第11代皇帝
宮廷に戻ったトゴン・テムルですが、エル・テムルの妨害で直ぐには、皇帝の座に就くことはできませんでした。
しかし、
ここで、トゴン・テムルに幸運が訪れます。
エル・テムルが病気で亡くなったのです。
1333年6月8日、遂に、トゴン・テムルが皇帝の座に就くことができました。
ドラマでは悪人ヨンチョルが、皇帝になったタファンをいじめ続けますが、史実では、ヨンチョルのモデル・エル・テムルはここで亡くなっています。
エル・テムル一族の滅亡
権力者のエル・テムルが亡くなると、代わってバヤンが中書右丞相に就任し、権力を掌握し始めました。
エル・テムルの死で、陰りの見えたヨンチョル一族は、1335年、息子のタンキシが起死回生のクーデターを起こしました。
しかし、このクーデターはバヤンによって鎮圧されます。
バヤンはこれを機会に、エル・テムルの一族をすべて粛清してしまいました。
エル・テムルの娘の皇后ダナシリも例外でなく、バヤンに殺害されてしまいます。
バヤンの躍進と追放
バヤンがエル・テムルに代わって権力を持ち始めます。
エル・テムルがいなくなり、ホットできるはずのトゴン・テムルですが、今度はバヤンに苦しめられることになりました。
1340年、トゴン・テムルはトクトと組んでバヤンを追放を企てます。
バヤンの横暴を快く思っていなかったトクトがトゴン・テムルにバヤン追放を持ちかけたのです。
両者の利害が一致した結果、早速、トクトはバヤン追放に動きました。
信じていたトクトの裏切りで、バヤンはトクトに捕まり、流刑地に送られる途中で病死してしまいます。
トクトの政権と軍事力の掌握
この政変の煽りを受けて、皇太后のブダシリも流刑となり、流刑地で亡くなります。
これによって、朝廷を掌握してきた旧勢力が一掃されました。
しかし、
バヤンに代わって、権力を掌握したのがトクトでした。
トクトは一時、父の冤罪により政治の場から離れていますが、1350年に父親の冤罪が明らかになるとに中書右丞相に復帰しました。
トクトは政権と軍事力を掌握していきます。
トクトの死による元の衰退
トゴン・テムルはトクトへの権力の集中をひどく恐れました。
そこで、1354年に紅巾の乱の鎮圧に向かう途中でトクトの身柄を拘束、流刑地へ護送する途中で自害(毒殺)させてしまいました。
トクトの死により、元の軍事力は衰退します。
そのため、1368年、朱元璋の明軍により元の防衛軍が破れ、明軍の大都への侵略を許す結果となりました。
元の衰退の始まりです。
北への逃亡とトゴン・テムルの死
1369年、トゴン・テムルは奇皇后、息子のアユルシリダラとともに、大都を捨てて、モンゴルの応昌府に逃亡します。
そして、とうとう
1370年にトゴン・テムルが応昌府で亡くなります。
享年50歳でした。
息子のアユルシリダラが即位しますが、既に、元は滅亡に大きく向かっていました。
なお、奇皇后がどこで、いつ亡くなったのかは、明らかではありません。
まとめ
奇皇后のタファンのモデルになったトゴン・テムルは本来、皇族を支える軍閥によって振り回された生涯でした。
そのため、家系図を見れば分かるように皇位継承順も乱れています。
最後はトクトを追放して、軍閥の解体を図りますが、軍の衰退となり、明による侵略を許してしまいます。
そして、これが元の滅亡へとつながっていきました。
歴史歪曲と言われる「奇皇后」ですが、権力者にオロオロするタファンの姿は実在のトゴン・テムルに近いかもしれません。