1971年に発見された武寧王の墓は「世紀の大発見」と言われました。
誰の子供かすらハッキリしない武寧王は謎に包まれた人物だったからです。
武寧王の家系図からその謎を探ってみました。
武寧王の家系図
武寧王は百済の第25代国王です。
武寧王の生まれについては諸説あり、三国史記と日本書紀では違いがあります。
三国史記での家系図
「三国史記」では、武寧王は東城王の第2子と記録されています。
<三国史記での武寧王の家系図>
東城王は第22代の文周王の弟の昆支の子です。
日本書紀での家系図
日本書紀で引用している百済新撰では、武寧王は昆支(蓋鹵王の弟)の子で、末多王(東城王)の異母兄であると記載しています。
<日本書紀での武寧王の家系図>
ドラマ「帝王の娘 スベクヒャン」は日本書紀の系図を基に作成されたと思われます。
しかし、日本書紀が引用する百済新撰には嶋王(武寧王)が蓋鹵王の子で日本の島で生まれたとの記載があります。
日本書紀の編集者は「嶋王(武寧王)は蓋鹵王の子であり、末多王は昆支王の子のはず、武寧王が異母兄である」とは理解できないとコメントを残しています。
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日本書紀で語られる武寧王
日本書紀では、武寧王は日本の佐賀県波戸岬から約4km北に位置する加唐島で生まれたと記述されています。
注意)武寧王は昆支(蓋鹵王の弟)の子との記載もあり、日本書紀の中で矛盾した内容になっています。
六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是、軍君即以一船、送嶋君於國。是爲武寧王
<引用元:日本書紀 雄略天皇紀5年(461年)条>
軍君は蓋鹵王の弟・昆支のことです。
蓋鹵王の弟が日本に臣従の意思表示として派遣されるときに、弟の希望で蓋鹵王の夫人(子供を身ごもっていた)を伴ったと記録されています。
子供が生まれたら、送り返すことを条件に同行させたといいます。
今の常識からはちょっと信じられないエピソードですね。
しかし、実は近年になって、日本書紀の記述が正しいという論文が発表されました。
その根拠は、武寧王のお墓から発見された墓誌石に記述された没年日と享年が日本書紀の記録と一致したのです。
「当時、日本と百済は活発に交流しており、日本に行く途中で母親が加唐島で出産したのではないか」
「日本に渡った百済の人が日本書紀の編集に参加していたのではないか」
と論文を書いた教授は語っています。
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武寧王はどんな王だったのか?
武寧王は誰の子供なのかもハッキリせず、日本の島で生まれたとも言われています。
まさに神秘のベールに包まれた人物なのです。
しかし、1971年に武寧王の王陵が偶然発見され、歴史書の記録の正しさが証明されてきています。
例えば、誌石には武寧王が523年5月7日に62歳で亡くなり、525年8月12日に埋葬されたことが記録されていました。
この没年は日本書紀の没年と一致しています。
武寧王プロフィール
百済の第25代の王
生年:462年
没年:523年
享年:62歳
在位:502年-523年
墓:武寧王陵
子供:明禯(聖王)
武寧王の家族
発見された武寧王陵には王妃も合祀されていました。
王妃の誌石には王太妃(聖王の母親である呼称)と刻まれており、聖王の母親が王妃として合祀されていることが分かりました。
王妃は526年12月に亡くなり、529年2月12日に埋葬されていました。
王太妃は武寧王が王に即位してから結婚していますが、最初の夫人ではなかったと言われています。
また、武寧王には長子がいたと言われていますが、詳細は不明です。
まとめ
1971年に忠清南道公州市宋山里の古墳群から武寧王の墓が発見され、武寧王と王妃の墓誌と2561点に及ぶ多くの副葬品が発見されました。
この「世紀の大発見」により武寧王について次第に正確なことが分かってきました。
しかし、今だ謎が多く、武寧王は神秘のベールに包まれたままです。
一方、平成天皇が平成13年12月18日の記者会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である」と述べたように、武寧王は日本とは大変深い関係の王です。
武寧王について、更に正しい事実が発見されることを期待しています。