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善花公主の家系図【ケベクのソンファ王妃は善徳女王の妹?】

階伯(ケベク)に登場するソンファ王妃は真平王の娘の善花公主です。

つまり、善徳女王とは姉妹になります。

百済の王妃になった善花公主について家系図からご紹介します。

 

善花公主の家系図

善花公主(ソンファコンジュ)は新羅の第26代王・真平王の三女です。

姉には朝鮮半島初の女王になった第27代王の善徳女王がいます。

つまり、後に百済のソンファ王妃となる善花公主は敵対国・新羅の王女だったのです。

<善花公主の家系図>

 

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善花公主はどんな王妃だったのか?

新羅の善花公主は百済の武王と結婚してソンファ王妃となりました。

善花公主は「三国遺事」の武王条に記載されている王妃で、正史の「三国史記」には記載がありません。

そのため、善花公主は武王の王妃ではなかったと主張する人もいます。

 

善花公主プロフィール

善花公主について、詳しいことはほとんど分かっていません。

百済30代武王の王妃
生年・没年:不詳
父:新羅第26代真平王
母:摩耶夫人
姉:善徳女王
姉:天明公主

 

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「三国遺事」に記載された善花公主

善花公主は「三国遺事」の武王条に登場します。

「三国遺事 巻2 紀異2 武王」に武王と善花公主の出会いと王妃になってからの出来事が記載されています。

善花公主を王妃とする理由はこの「三国遺事」の説話によるものでした。

<豆知識>薯童説話
三国遺事のこの説話を薯童説話(ソドンせつわ)と呼んでいます。
山芋を売り歩いていた百済の王子が敵国の王女と愛し合って王になる物語です。韓国時代劇の巨匠・イ・ビョンフン監督が「薯童謠(ソドンヨ)」としてドラマ化しています。

善花公主が史料に登場するのは「三国遺事」のみで、「三国史記」には登場しません。

そのため、善花公主が武王の王妃であることを疑問視する説もあります。

 

善花公主は架空の人物?

最近になって善花公主の実在を疑る説が浮上しました。

それは、弥勒寺跡の西塔で改修工事中に発見された舎利奉安記によるものでした。

舎利奉安記は西塔の建立過程を記録したものですが、

「百済王后は佐平の沙乇積徳の娘であり、財物(浄財)を喜捨して伽藍を建て、己亥(639)年正月29日舎利を奉安した」

と記載されていました。

 

善花公主が武王の王妃である根拠となっていた三国遺事では、善花公主が武王に寺を建てることを進言していました。

しかし、発見された舎利奉安記(西塔の建立過程を記録)では、沙乇積徳の娘(百済王后)が建立したと記録されていたのです。

そのため、善花公主は実在人物ではなく,説話上の架空の人物であると主張する人もでてきました。

 

しかし、実は舎利奉安記は西塔の建立の記録でした。

弥勒寺には中央に木塔、西側と東側に石塔が配置されています。

木塔は一番規模が大きく、おそらく最初に建立されたと思われます。

 

つまり、善花公主の祈願により弥勒寺の建立が始まり、完成する前に善花公主が逝去した。

佐平沙乇積徳の娘が次の沙宅王后となり、その時に西塔部分を完成させたとも考えられます。

 

善花公主は架空の人物か?

いずれにしても、決定的な証拠が発見されるまで、決着はつかないものと思われます。

 

善花公主は義慈王の母?

善花公主が百済31代武王のソンファ王妃だとすると、次の疑問は「義慈王の母か?」です。

義慈王の母については、ソンファ王妃とする説と沙宅王后とする説があります。

沙宅王后は弥勒寺跡の西塔で発見された舎利奉安記にも記録のある女性で佐平の沙乇積徳の娘です。

 

しかし、いずれの説も決定的な証拠はなく、未だ議論が続いている状況です。

一つの仮説としては、ソンファ王妃(善花公主)が武王の先妃で義慈王の母、沙宅王后が後妃が考えられます。

ドラマ「階伯」はこの説で構成されていました。

 

まとめ

ソンファ王妃が真平王の娘・善花公主であれば、善徳女王の妹にあたります。

しかし、史料で善花公主が登場するのは「三国遺事」のみで、その真偽は未だはっきりしていません。

そのため、新たな史料が発見されるまで、この議論は永遠に続くものと思われます。

 

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