王妃の理想の出世は「世子嬪→王妃→大妃」でした。
朝鮮王朝で唯一
この生涯を送ったのが明聖王后でした。
明聖王后とはどんな王妃だったのか?
家系図から詳しくご紹介します。
明聖王后の家系図
明聖王后(ミョンソンワンフ)は、高麗時代に門下侍中(朝鮮王朝の領議政に相当)になった金大猷を始祖とする清風金氏一族の出身です。
第22代国王・正祖の正室・孝懿王后(ヒョウィワンフ)も清風金氏一族の出身でした。
<明聖王后の家系図>
明聖王后の父親の金佑明は金堉から金址の養子になっています。
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明聖王后はどんな王妃だったのか?
明聖王后は頭がよく聡明でしたが、気性が大変荒かったと言われています。
そのため、宮殿内の事柄をよく感情的に処理することがあったといいます。
明聖王后のプロフィール
氏族:清風金氏
生年:1642年5月17日
没年:1683年12月5日
在位:1659年5月9日-1674年8月22日
諡号:顕烈禧仁貞献文徳明聖王后
父親:金佑明
母親:恩津宋氏
配偶者:顕宗
埋葬:崇陵
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明聖王后の家族
明聖王后は顕宗との間に1男3女の子供をもうけています。
一人息子はドラマ「トンイ」で人気のある第19代国王の粛宗です。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 金佑明 | 1619-1675 | 清風府院君 |
母 | 徳恩府夫人 | 1621-1660 | 宋国沢の娘 |
夫 | 顕宗 | 1641-1674 | 第18代国王 |
長男 | 粛宗 | 1661-1720 | 第19代国王 |
長女 | 明善公主 | 1660-1673 | |
次女 | 明恵公主 | 1665-1673 | |
三女 | 明安公主(温姫) | 1667-1687 | 呉泰周の妻 |
明聖王后の兄弟
明聖王后には兄弟姉妹が多くいましたが、異母弟、異母妹に関する詳しいことは分かっていません。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
兄 | 金萬胄 | 1639-1657 | |
弟 | 金錫翼 | 1645-1686 | |
弟 | 金錫衍 | 1648-1723 | |
弟 | 金錫達 | 1657-1687 | |
妹 | 不詳 | 不詳-1709 | 權益興の妻 |
弟 | 金錫耉 | 不詳 | 異母弟 |
弟 | 金錫悌 | 不詳 | 異母弟 |
妹 | 不詳 | 不詳 | 異母妹 |
弟 | 金錫善 | 不詳 | 異母弟 |
弟 | 金錫順 | 不詳 | 異母弟 |
明聖王后の生涯
10歳で世子嬪になった明聖王后は、18歳で王妃になり、33歳で大妃となりました。
大妃となった明聖王后は政治に積極的に介入していきました。
大人しかった世子嬪・王妃時代
1642年、明聖王后は金佑明の長女として生まれました。
明聖王后はまだ幼かった10歳で顕宗の世子嬪になりました。
1659年に孝宗が亡くなり、顕宗が第18代王として即位すると、明聖王后は18歳で王妃に冊封されます。
1661年、明聖王后は長男、後の粛宗を出産しました。
姑の仁宣王后は、夫の孝宗と清の人質となった人で、シッカリとした気の強い人でした。
同じく気の強い明聖王后も、姑の前では大人しかったと言われています。
<明聖王后の義理の母・仁宣王后>
しかし、その姑の仁宣王后は1674年2月に亡くなります。
明聖王后にとって口うるさい姑がいなくなったと思ったら、その年の8月には夫の顕宗が亡くなってしまいました。
政治に介入していった大妃時代
顕宗が亡くなると、息子の粛宗が14歳で即位、明聖王后は33歳で王大妃となります。
粛宗がまだ若いため、明聖王后の性格からすると、垂簾政治をしてもおかしくありませんでした。
しかし、王室の最年長である仁祖の継室・荘烈王后が健在だったのです。
<仁祖の継室・荘烈王后>
荘烈王后は政治に口を出す人ではなかったので、粛宗は一人で政務を行うことになりました。
まだ、若い息子を黙って見ていられず、大妃となった明聖王后は政治にまで口を出し、大臣たちのひんしゅくを買うことが何度もありました。
1675年、紅袖之変(ホンスジピョン)が起こります。
明聖王后が粛宗の王位を脅かす従兄弟の三福(福善君、福昌君、福平君)を陥れようとした事件でした。
この事件がキッカケで南人派の粛清が行われます。
また、粛宗が寵愛した張禧嬪が敵対する勢力の娘であることが気に入らず、宮廷から追い出してしまいます。
このように、姑がいたために抑えていた感情が一気に噴き出し、明聖王后は朝廷に対しても思うがままに振る舞ったのです。
明聖王后の最後
1683年、粛宗が天然痘にかかりました。
明聖大妃は仁顕王后とともに、断食をして毎日下着姿で水浴をしたといいます。
1683年12月5日、明聖大妃はその水浴びが原因で病死してしまいます。
享年42歳でした。
まとめ
明聖王后は粛宗の母親として有名です。
気性が激しく、大妃になってからは政治に介入して大臣たちのひんしゅくを買っています。
また、紅袖之変、南人派の粛清、張禧嬪の追放など多くの問題を起こしていました。