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ピョンガン王女(平岡公主)の家系図【先祖は高句麗の初代王・朱豪】

月が浮かぶ川のピョンガン王女のモデルは実在し平岡公主です。

ピョンガン王女(平岡公主)はどんな家系に育ったのか?

実在した王女の家系図をご紹介します。

 

ピョンガン王女(平岡公主)の家系図

ピョンガン王女は第25代王である平原王(ピョンウォンワン)の長女です。

高句麗を建国した朱蒙の子孫にあたります。

<ピョンガン王女の家系図>

ピョンガン王女の兄弟が第26代嬰陽王、第27代栄留王となっています。

また、ピョンガン王女の甥っ子が高句麗の最後の王である第28代宝蔵王となりました。

 

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ピョンガン王女の家族

ピョンガン王女は3男1女の長女でした。

関係 名前 読み方 備考
父親 平原王 ピョンウォンワン 第25代王
母親 延王后 平原王の正室
長男 高大元 コ・デウォン 第26代嬰陽王
次男 高建武 コ・ゴンム 第27代栄留王
三男 太陽 太陽王に追尊
長女 平岡公主 ピョンガンコンジュ ピョンガン王女

 

ピョンガン王女(平岡公主)

平岡公主に関しては、ほとんど記録が残っていません。

<平岡公主のプロフィール>
生年:不明
没年:不明
父:第25代王・平原王
母:延王后(正室)
兄弟姉妹:3男1女
夫:溫達(オンダル)
子供:なし

 

ピョンガン王女の父親

ピョンガン王女の父親は第25代王・平原王(ピョンウォンワン)です。

先代の王・陽原王(ヤンウォンワン)の長男として生まれ、559年3月に王になっています。

馬術と弓を射ることに優れたていたと言われています。

<平原王のプロフィール>
本名:高陽成(コ・ヤンソン)
生年:不詳
没年:590年
在位:559年 – 590年
別名:平崗上好王、平崗王
父親:陽原王(ヤンウォン)

三国史記には平崗上好王、三国遺事には平崗王の名前が使われています。

 

ピョンガン王女の兄弟

ピョンガン王女には3人の兄弟がいました。

長男の高大元(コ・デウォン)は父親の平原王を継いで第26代嬰陽王に即位します。

次男の高建武(コ・ゴンム)は兄が亡くなると第27代栄留王になりました。

三男・太陽の息子は高句麗最後の王・宝蔵王となっています。

 

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実在した夫の溫達(オンダル)

ピョンガン王女の夫である温達(オンダル)も実在した人物です。

オンダルは朝鮮半島最古の歴史書である「三国史記」に記録されている高句麗の勇猛な武将です。

三国史記は、その名が示すように三国時代(新羅・高句麗・百済)から新羅により統一されるまでを記録した歴史書です。

 

オンダルがピョンガン王女と結婚していたこと、武功を上げて将軍になったこと、ピョンガン王女の兄である嬰陽王のときに、阿旦城の戦いで戦死したことは事実のようです。

しかし、オンダル自身に関しては、何も詳しいことは記録されていません。

 

実在したピョンガン王女の史実

ピョンガン王女(平岡公主)と夫・オンダル(温達)の逸話は歴史書「三国史記」の「温達伝」に記載されています。

かなり脚色されていると考えられますが、温達が実在していたことは間違いありません。

 

逸話から推測すると、

ピョンガン王女は王の反対を押し切り結婚、オンダルはピョンガン王女の内助の功で更に活躍。数々の戦功を上げたオンダルは遂に将軍にまで上り詰めたが戦死。

このような話が身分の低い不遇な境遇の夫を助け、立身出世をさせた王女の話に脚色されたと考えます。

更に詳しくは>>ピョンガン王女は実在した平岡公主【王女ピョンガンは実話か?】
御覧ください。

 

まとめ

ピョンガン王女は実在した第25代高句麗王・平原王の娘です。

従って、祖先は高句麗を建国したことで有名な朱蒙(チュモン)に当たります。

夫のオンダルは実在した人物ですが、伝えられる物語は脚色された話です。

身分の低い男の立身出世とそれを助けた女性の内助の功が大きく脚色されたものと考えます。

 

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