史実のペク・クァンヒョン(白光炫)はどんな人物だったのか。
ペク・クァンヒョンの家系図から詳しく調べてみました。
すると、家系や医者になった動機などに意外な事実を発見しました。
ペク・クァンヒョンの家系図
ペク・クァンヒョン(白光炫)は、白宇経を始祖とする林川白氏一族の出身です。
代々、林川白氏一族は武官の家系で、父の白哲明、祖父の白仁豪も武官でした。
<ペク・クァンヒョンの家系図>
武官の家系のペク・クァンヒョン
父親の白哲明は折衝将軍,、僉知中樞府事(正三品)、五衛将(正三品堂上)の官位を歴任しました。
また、祖父の白仁豪も龍驤衛の護軍(正四品)の官位を得ています。
ペク・クァンヒョン(白光炫)も、家系の影響から宮廷を護衛する軍隊の羽林衛に入隊しました。
つまり、ドラマとは異なりペク・クァンヒョンは最初は武官だったのです。
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ペク・クァンヒョンの家族
ペク・クァンヒョン(白光炫)は9男3女の兄弟姉妹の次男として生まれました。
兄弟も多く、近所の家に食べ物をもらいに行くなど、裕福な家庭ではなかったようです。
<ペク・クァンヒョンの家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 白哲明 | 1604-1665 | 武官 |
母 | 昌寧趙氏 | 1607-1660 | |
長男 | 白光燦 | 1623-1697 | 武官、原從功臣を授かる |
次男 | 白光炫 | 1625-1697 | 羽林衛の武官、医師 |
三男 | 白光珣 | 1627-1680 | 龍驤衛の武官(副司果) |
四男 | 白光瓛 | ー | 早世 |
五男 | 白光瑗 | 1632-1711 | 武官、折衝将軍の称号 |
六男 | 白光璡 | ー | 早世 |
七男 | 白光瑄 | ー | 早世 |
八男 | 白光璘 | 1647-1721 | 内医院の医師 |
九男 | 白光瑾 | ー | 早世 |
長女 | 不明 | ー | |
次女 | 不明 | ー | |
三女 | 不明 | ー |
武官のペク・クァンヒョン
当初、ペク・クァンヒョン(白光炫)は羽林衛(ウリミ)の武官になりました。
羽林衛は、内禁衛(ネグミ)、兼司僕(キョムサボク)と並び、王の護衛や宮廷の警護をする部隊です。
羽林衛は庶子(妾の子供)でも入隊できたといいます。
兄の白光燦
兄の白光燦は沈器遠の反乱の鎮圧に参加して武功をたて、寧國原從功臣の称号を得ています。
沈器遠の反乱とは、1644年に前左議政の沈器遠が失政が多かった仁祖に替えて、世子を王位に就けようとしたクーデターです。
沈器遠が仁祖反正の際の中心的人物であることが衝撃を与えてた事件です。
反乱は密告により、事前に鎮圧されました。
弟の白光璘
弟の白光璘は、兄のクァンヒョン(白光炫)の影響を受けて、内医院の鍼医になっています。
しかし、兄のクァンヒョン(白光炫)ほどの名声を得ることはありませんでした。
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武人から馬医、そして鍼医師に
武人として生活していたペク・クァンヒョン(白光炫)があることから、医師を目指したといいます。
それは、武人時代の落馬事故が原因でした。
医師になることを決意
ある日、ペク・クァンヒョンは馬から落ちて大怪我を負いました。
将来、歩けなくなるかもしれないほどの大怪我でした。
しかし、有名な名医に診てもらい見事に回復したのです。
医者の施術を見ていたペク・クァンヒョンは医師の凄さに大感激しました。
そして、ペク・クァンヒョンは医師になることを決意します。
馬医として医術を学ぶ
しかし、当初、ペク・クァンヒョンは人間の医者ではなく、馬の医者として医術を学び始めました。
軍隊に所属していた関係で馬が身近にいたことが動機かもしれません。
ペク・クァンヒョンは時を惜しんで、鍼の猛練習を繰り返したといわれています。
馬医から腫れ物治療の医師に
そして、馬の治療を人間に応用して、鍼による腫れ物治療で成功します。
腫れ物で困っている人がいれば、飛んでいき治療をしたといいます。
そして、次々と成果をあげました。
ペク・クァンヒョンの腫れ物治療の優れた業績は、沸騰消毒した鍼(刃物)を使って、患部を切開し、腫れ物の原因を根本から取り除く外科治療を確立したことです。
ペク・クァンヒョンの評判は広まり、ペク・クァンヒョンは馬医から医師に専念していきます。
詳しくは>>馬医の実話【実在したペク・クァンヒョンの史実とは?】
ペク・クァンヒョンの最後
ペク・クァンヒョン(白光炫)は、1696年6月に突然、吐血しました。
色々な薬を処方しましたが、効果は見られませんでした。
おそらく、胃がん、もしくは食道がんではなかったと推測します。
このころ、粛宗にも病気が発生し、病状も良くありませんでした。
これを聞いたペク・クァンヒョンは驚くことに、粛宗の診察に出向いたといいます。
粛宗の診察を終えたペク・クァンヒョンは、臣下に「王の病気は快方に向かうこと」そして、「王に会えて死んでも悔いのないこと」を告げて涙を流したと言われています。
これ以降、ペク・クァンヒョンの病状は悪化、そして1697年2月9日に亡くなりました。
享年73歳でした。
ペク・クァンヒョンはどんな人物
ペク・クァンヒョン(白光炫)は、外見は大きく、見栄えの良いひげをはやしていたそうです。
白光炫(ペク・クァンヒョン)
生年:1625年4月6日
没年:1697年2月9日
享年:73歳
本貫:林川白氏(始祖:白宇経)
父:白哲明(ペク・チョルミョン)
母:昌寧趙氏
妻:淸州韓氏
子供:白興齡、白興聲、白興隣
ペク・クァンヒョンは当時の医書にも記載されていない独自の鍼治療で腫れ物を治して功績を上げたことから、挑戦的な意欲をもった努力の人であったと推定できます。
また、王宮の王族から町の貧しい庶民まで分け隔てなく治療をしました。
このことから、医療技術だけでなく、人格的にも優れた人物であることが分かります。
まとめ
ペク・クァンヒョン(白光炫)の家系は代々、武官の家系でした。
落馬事故が医師を目指した動機だったとは驚きです。
また、直ぐに医者になることはなく、軍隊で馬医として医術を磨いたこともびっくりです。
ペク・クァンヒョンの凄さは、馬で得た医術と経験を人に人の治療に生かしたことです。
特に、当時、治療が困難だった腫れ物を鍼で完治させる技術が卓越していました。
町医者であったペク・クァンヒョンが宮廷に呼ばれたことを見ても、飛び抜けて優れていたと思われます。