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善徳女王の死因とは?【謎の多い女王の死を徹底調査】

善徳女王の死因は647年病死説が最有力ですが、いくつかの仮説が存在します。

そこで、善徳女王の謎多い死について徹底解説します。

この記事で分かること
・善徳女王の死因
・ピダムの乱との関係
・善徳女王のお墓

善徳女王の死因

現存する記録から、「善徳女王は647年1月8日に病死した」というのが最も有力な説と考えられます。

善徳女王の死因を特定するような記録は存在しませんが、普段から病気を患っていたと思われる記録が存在します。

例えば、三国史記には重病の記録があります。

王疾,醫禱無效
<三国史記善徳王5年(636年)3月>

<訳>王が病にかかり、医術や祈祷も効果がなかった

 

また、三国遺事では病の重さを秘めてか、自身の死を予知しています。

王無恙時、謂群臣曰、朕死於某年某月日、葬我於忉利天中
<三国遺事 紀異・善徳王知幾三事>

<訳>王が健在の時、群臣に向かって、「私はある年のある月日に死ぬであろう。その時は私を忉利天の中に葬りなさい」と言った。

忉利天(とうりてん)とは、須弥山の頂上にある帝釈天をはじめ、33の天部や神々が住むとされる仏教の最も神聖な場所のことです。

 

善徳女王が即位した当時は、唐や百済との緊張関係が高まり、政治的な重圧も強かったと思われます。

特に、女性であるが故にその重圧は計り知れなかったでしょう。

こうしたストレスが健康に大きく影響を与え、40代という若さで亡くなった可能性が高いと推測されます。

善徳女王の生涯については>>善徳女王の家系図で詳しくご紹介しています。

 

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ピダムの乱と女王の死、次の王への流れ

善徳女王はピダムの乱の翌日に亡くなったため、反乱によるショックや殺害説が存在します。

しかし、キム・ヨンヒ氏は著書「善徳女王の真実」で善徳女王の死から次の王の擁立に至る過程について、明確な仮説を立てています。

 

彼女によると、善徳女王は以前から重病を患い、病状悪化をきっかけに次の王の選定をめぐる政治的対立が激化しました。

キム・ユシンが推す真徳女王と女性の王に反対するピダムが対立し、結論が出ないまま善徳女王が危篤に陥り、ピダムは反乱を決行します。

しかし、キム・ユシンにより反乱が鎮圧され、真徳女王が即位しました。

 

以上がつキム・ヨンヒ氏の説ですが、善徳女王はピダムの乱が原因で亡くなったのではなく、病状の悪化を知ったピダムが乱を起こしたと考えています。

また、この説によれば、真徳女王の即位も事前に計画されていたことになります。

キム・ヨンヒ氏は壇国大学で女性学を教える学者です。正史とされる「三国史記」および「三国遺事」と、筆写本「花郎世紀」を中心に据え、約10年の歳月をかけて古都・慶州を調査、善徳女王の生涯を調べ上げました。

 

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善徳女王のお墓

善徳女王は慶州市の狼山(ナンサン)と呼ばれる小高い丘の上に埋葬されています。

三国史記にも狼山に埋葬されたことが記録されています。

八日,王薨。諡曰善德,葬于狼山
<三国史記善徳王十六年春正月より>

<訳>八日、王が逝去した。諡を善德といい、狼山に埋葬した。

 

善徳女王は自分が亡くなる日を予知しただけでなく、亡くなったら埋葬する場所を仏の国(慶州市の狼山)に指定したと伝えられています。

狼山は現在の位置で慶州市東南側にあたり、仏教国家・新羅の象徴ともいえる場所です。

善徳女王のお墓の場所

<善徳女王のお墓の場所>
場所:慶尚北道 慶州市 普門洞 山 79-2

 

お墓は特に石像がなく、同時代の武将・キム・ユシンと比べるとかなり寂しい感じですが、後に墓の入口付近に仏を守る意味の四天王寺が建設され、仏の国であることが明確になりました。

善徳女王のお墓

<善徳女王のお墓>

まとめ

善徳女王の死因は病死が最も有力な説と考えますが、その背景にはピダムの乱や次の王の選定をめぐる複雑な政治的駆け引きがありました。

ピダムの乱が鎮圧され、真徳女王が即位、新羅の政治は再び女王に委ねられました。

女性王は否定されなかったのです。

 

病に苦しみながらも初代女王の役目を果たした善徳女王は彼女自身が生前に選んだ場所である狼山に埋葬されています。

善徳女王の生涯と死因の謎を追うことで、新羅における女性王の存在意義を改めて考えるきっかけとなるでしょう。

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