ドラマではピダムと婚姻宣言しますが、史実ではありません。
では、善徳女王の夫は誰だったのか?
実は、善徳女王には3人の夫がいたと言われています。
謎多き女王について詳しく調べてみました。
善徳女王の夫は誰?
三国史記には善徳女王の夫に関する記録は全くありませんが、三国遺事には飲葛文王(ウムカルムナン)と記録されています。
ただし、三国遺事の記録は第一巻の王暦にその名が記録されているだけで、詳しいことは全く分かっていません。
また、この時代を記録した史料として花郎世紀があります。
花郎世紀は今だにその真偽が分かれる史料ですが、善徳女王の時代のエピソードを多く記録している史料です。
その花郎世紀では、善徳女王の夫は3人、龍春(ヨンチュン)、欽飯(フムパン)、乙祭(ウルジェ)と記録されています。
龍春(ヨンチュン)は、善徳女王がまだ、徳曼王女の時に結婚しています。
徳曼王女が女王に即位した時に、公爵(龍春)を夫にしようとしましたが、跡継ができないことから辞退しました。
そこで、大臣たちは三婿制に従って、三人の婿を取ることを提案します。
その時に、選ばれたのが欽飯(フムパン)、乙祭(ウルジェ)でした。
善德公主卽位.以公為夫.而公以無嗣請自退.群臣乃議三婿之制.欽飯公・乙祭公副之.<引用元:花郎世記·龙春·戊戌生·丙辰郞主より抜粋>
以上、花郎世紀による記録をまとめると、
しかし、跡継ができませんでした。
そこで、善徳女王に即位したときに三婿制を採用して、欽飯(フムパン)、乙祭(ウルジェ)の二人を夫に迎えました。
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善徳女王の夫はどんな人
善徳女王の夫として、3人の名前が上がりましたが、3人はどのような人物なのでしょうか。
まずは、善徳女王との関係について調べてみました。
点線の”—-”が夫婦関係です。
<善徳女王の婚姻関係図>
善徳女王は王位継承の安定のために3人の夫を持ちましたが、子供を授かることはできませんでした。
龍春(ヨンチュン)
龍春(ヨンチュン)は、姓は金なので正式には金龍春(キム・ヨンチュン)といい、真智王(チンジワン)の息子です。
そして、兄の龍樹(ヨンス)は善徳女王の姉の天明公主(チョンミョン)の夫にあたります。
詳しいことは不明ですが、真智王は579年に逝去(三国史記)、または廃位(三国遺事)されたと記録されています。
そのため、息子の龍樹(ヨンス)と龍春(ヨンチュン)は真平王のもとで徳曼王女、天明王女と一緒に育ちました。
後に、龍樹(ヨンス)は天明王女の夫、そして、龍春(ヨンチュン)は徳曼王女の夫になります。
二人とも、ドラマ「善徳王女」に登場しています。
欽飯(フムパン)
欽飯(フムパン)は、姓は林なので正式には朴欽飯といい、真興王の孫にあたります。
先に、ご紹介したように欽飯(フムパン)の名前は花郎世記にしか登場しません。
三国遺事には善徳女王の夫として飲葛文王が記録されていますが、葛文王は王族の男性に付けられる呼称です。
従って、「飲」が名前と関係すると考えると欽飯と同一人物である可能性が高いと考えられます。
また、真興王の孫だったとすると伯飯が欽飯ではないかとの説もあります。
いずれにしても謎の多い人物です。
欽飯はドラマ「善徳女王」には登場しません。
乙祭(ウルジェ)
ドラマ「善徳女王」に大臣として登場しています。
乙祭(ウルジェ)は史実では和白会議(ファベクフェイ)の長である上大等(サンデドゥン)を務めました。
和白会議は最高の意思決定機関で各官府の長と高貴な貴族から構成されていました。
上大等はその和白会議の議長であり、国務総理に相当する大臣の最高位職でした。
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善徳女王と毗曇(ピダム)との関係
ドラマ「善徳女王」では、女王が毗曇(ピダム)と婚姻を宣言しますが、史実ではありません。
詳しくは>>史実で善徳女王とピダムは結婚したのか?【ピダムの謎に迫る】
毗曇(ピダム)に関しては、謎が多く、両親のこと、生年、成人までの記録など全く残っていません。
ただ、和白会議の最高位である上大等になりながらも、反乱(ピダムの乱)を起こした逆臣として記録されています。
645年に毗曇(ピダム)は善徳女王から上大等に指名されていますが、その2年後の647年に反乱を起こしています。
その理由は「女性の君主では国を治めることができない」というものでした。
しかし、ピダムの乱はたったの10日で鎮圧されてしまいます。
史実における善徳女王と毗曇(ピダム)の関係は単なる臣下の関係でした。
従って、ドラマ「善徳女王」におけるピダムの話は、ほとんどがフィクションです。
まとめ
「花郎世紀」によると、善徳女王には3人の夫がいました。
驚くべきことに、善徳女王がまだ徳曼王女のときに、天明王女の夫である龍樹(ヨンス)が王命で徳曼王女にも仕えたといわれています。
もし本当だとしても、これらの事は王族の安定な王位継承を考えたものであり、善徳女王が好色であったわけではありません。
今考えると不道徳なことですが、当時としては普通のことだったのかもしれません。
王族にとっては、愛情よりも王族の存続が最優事項だったのだと考えられます。