イバンウォンの次の王は忠寧大君(イ・ド)でした。
では、なぜ三男が後継者となり、次男ではなかったのでしょうか?
その理由を詳しく解説します。
イバンウォンの次の王
第3代王・太宗(イバンウォン)の次に即位したのは、忠寧大君(イ・ド)で、彼は後に朝鮮最高の名君「世宗」として知られる存在となります。
称号:忠寧大君(チュンニョンデグン)
本名:イ・ド
生年:1397年年4月10日
没年:1450年2月17日
享年:54歳
在位期間:1418年8月11日-1450年2月18日
即位年齢:22歳
王妃:昭憲王后
世宗について詳しくは>>世宗の家系図【韓国で最も人気のある朝鮮最高の名君・世宗大王】で詳しく解説しています。
世宗は政治、経済、文化の各分野で多くの功績を残しました。
ハングルの創製
集賢殿による人材育成と学問の発達
国土の拡大
農業と科学技術の向上
文化芸術の保護
イバンウォンはなぜ三男のイ・ドを選んだのか?
イバンウォンは、三男のイ・ドについて「王としての資質を十分に備えている」と高く評価していました。
幼い頃から、学問を好み、聡明であったこと、成人してからは政治の本質をよく理解しており、ことば使いや立ち振る舞いも申し分ないと述べています。
忠寧大君天性聰敏, 頗好學~(略)~識治體, 每於大事, 獻議允合, 且有出於意料之外。若接上國使臣, 則身彩言語、動靜周旋合禮。
<引用元:太宗実録1418年6月3日>
このような理由から、イバンウォンは三男・忠寧大君こそが王にふさわしいと判断しました。
一方、長男の譲寧大君(ヤンニョンデグン)は11歳で王世子になりましたが、素行不良が度重なり、廃位され宮廷外に出されています。
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この時、イバンウォンには次男の孝寧大君(ヒョリョンテグン)がいました。
長子継承を重んじたイバンウォンが、なぜ、次男を飛ばして三男を後継者に選んだのでしょうか?
次男について、イバンウォンは王としての器を感じなかったようで、次のように述べています。
<引用元:太宗実録1418年6月3日>
イバンウォンが三男を選ばなかった理由をまとめると次のとおりです。
1.王としては性格が優しすぎる
2.政治に対する理解が劣る
3.酒を飲めない
「酒を飲めない」の真意とは?
イバンウォンが言った「酒を飲めない」は比喩的表現です。
真意は、一つは政治の世界において、臣下と酒を飲みながら腹を割って話すことができないと思われた可能性があります。
ドラマ「太宗・イ・バンウォン」で、世子になる機会を与えられた忠寧大君が臣下と酒を飲みながら親交を深める場面がありました。
二つ目は、「崇儒排仏」の精神から、仏教を好ましく思っていなかったイバンウォンが、「酒を飲めない孝寧大君=仏教徒」として、王として資質を問題視したとも考えられます。
世宗はどんな王だった?太宗とどう違うのか?
太宗(イ・バンウォン)と世宗(イ・ド)の即位後の政策の違いを表にしました。
比較観点 | 太宗 (イ・バンウォン) |
世宗 (イ・ド) |
政治スタイル | 強権的で中央集権型 | 温和で合議制を重視 |
即位過程 | クーデターで即位 | 平穏な譲位で即位 |
外戚との関係 | 妻の家族も粛清 | 政治に関与させない |
臣下との関係 | 功臣も粛清、絶対服従 | 臣下の意見を尊重 |
王権強化手法 | 武力と粛清による強化 | 法制度・合議・人材 |
文化・学問 | 消極的 | 積極的に振興 |
この表から、現実主義者の太宗が築いた政治基盤があったからこそ、世宗の理想政治が可能となったと考えられます。
太宗については>>李芳遠(イバンウォン)の家系図【血の抗争を展開した家族】をご覧ください。
イバンウォンから世宗へ
イバンウォン(太宗)は、イ・ソンゲ(太祖)を初代王とする朝鮮王朝の第3代王でした。
彼は5男でしたが、力ずくで王位を勝ち取りました。
イバンウォンの次の王となった世宗も三男でしたが、彼は王の資質で王位を得ています。
<世宗までの系図>
<兄弟の比較表>
名前 | 生年 | 順位 | 性格・特徴 | 即位しなかった理由 |
譲寧大君 | 1394 | 長男 | 放蕩・豪奢な生活 | 国王に不適格と判断された |
孝寧大君 | 1395 | 次男 | 学識に優れ穏やか | 政治より仏教を好んだ |
忠寧大君 | 1397 | 三男 | 文武両道、温厚で賢明 | 太宗から国王に指名され即位 |
誠寧大君 | 1405 | 四男 | 不詳 | 14歳で亡くなる |
1418年に忠寧大君は即位しますが、依然としてイバンウォン(太宗)が人事権と軍事権を持ち、朝廷を掌握していました。
世宗が実権を握ったのは、太宗が亡くなった4年後の1422年でした。
年 | 年齢 | 出来事 |
1418 | 22 | 譲寧大君(長男)が世子を剥奪される |
忠寧大君(世宗)が世子に冊封される | ||
太宗が忠寧大君に譲位、第4代王・世宗として即位する | ||
太宗は軍事権をもって上王となる | ||
1422 | 26 | 太宗が亡くなり、世宗の親政が始まる |
まとめ
イバンウォン(太宗)は、長男の廃位後も長子継承にこだわらず、三男の忠寧大君(イ・ド)を次の王に選びました。
これは、王としての資質を冷静かつ現実的に見極めた結果、三男が理想的な後継者であり、次男は王に不向きと判断した結果でした。
後に、忠寧大君(世宗)は朝鮮王朝最高の名君となり、イバンウォンの選択の正しさを証明する結果となりました。