亀城君(クソングン)は朝鮮最年少で領議政になりながら、誣告事件により地位を追われ流刑地で亡くなりました。
この記事では、亀城君の家系図から人物像、家族関係、そして悲劇の生涯を史実をもとに詳しく解説します。
亀城君の家系図
亀城君は世宗の四男・臨瀛大君と崔承寧の娘・崔氏の間に生まれた宗親でした。※宗親:王室の一族

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<亀城君の家系図>
父の兄弟の長男は第5代王・文宗、次男は第7代王・世祖ですが、三男・安平大君と六男・錦城大君は流刑。五男・広平大君と七男・平原大君は若くして亡くなっています。世祖代に健在だった兄弟は特に功績もなく凡庸だった四男・臨瀛大君(亀城君の父)と八男・永膺大君だけでした。
また、亀城君の姉・中牟県主は燕山君の正妃・廃妃慎氏の母であり、中宗の妃・端敬王后の祖母にあたります。
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たびたび騒動を起こした父・臨瀛大君とは異なり、亀城君は幼少のころから聡明で模範的な王族として成長しました。成人した亀城君を評して、世祖実録では「若いのに落ち着きと風格があり、老練な人物のようだ」と記されています。(実録:世祖14年7月17日の条)
王族の中でも、広坪大君の息子・永順君とともに世祖から大変寵愛を受け、将来を嘱望されていました。
プロフィール
没年:1479年1月28日(享年39歳)
君号:亀城君(귀성군)
名前:李浚(이준)
字:子淸
号:子濬
諡号:忠懋
本貫:全州李氏
亀城君の家族
臨瀛大君は最初に右議政・南智の娘(義寧南氏)を正室とし、後に亀城君の母となる崔承寧の娘(全州崔氏)を継室として迎えています。実の兄弟姉妹は次のとおりです。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 臨瀛大君 | 1419-1469 | 世宗の四男 |
| 母 | 斉安府夫人 | 1420-不詳 | 崔承寧の娘、全州崔氏 |
| 長女 | 中牟県主 | 1435年-不詳 | 廃妃慎氏の母、端敬王后の祖母 |
| 長男 | 烏山君 | 1437-1489 | 李澍 |
| 次男 | 亀城君 | 1441-1479 | 李浚 |
| 次女 | 清河県主 | 1448-不詳 | |
| 三男 | 貞陽君 | 1453-1492 | 李順 |
| 四男 | 八溪君 | 1454年-不詳 | 李淨 |
| 五男 | 懽城君 | 1456年-不詳 | 李澄 |
世祖の宗親登用政策と亀城君の大抜擢
世祖は即位後、旧功臣による権力集中を抑えるため、王権に近い新たな人材として宗親を積極的に登用しました。
こうした中、1468年に亀城君は李施愛の乱を大将として鎮圧。この功績により、世祖は亀城君を領議政に大抜擢しました。実録には次のように記されています。
李施愛作亂, 命浚爲大將討之, 浚果有功。 自是眷遇日隆, 至是特授領議政
<世祖実録:世祖14年7月17日>
このとき、亀城君は28歳。朝鮮王朝最年少での領議政就任でした。
世祖の逝去|後ろ盾を失い流刑
世祖は旧功臣たちを抑えるために、王族である宗親を登用し始めました。しかし、道半ばで世祖は逝去。旧功臣勢力が力を盛り返し、口実を付けて新興勢力らを排除していきました。
亀城君も「誣告事件」が発端となり、旧功臣勢力によって慶尚道の寧海に流刑にされています。
首陽大君(後の世祖)とは異なり、亀城君は露骨に野心を示したことはありませんが、旧功臣たちが危機感を抱くには十分な王としての資質を備えていました。
亀城君誣告事件|成宗元年(1470年)
成宗実録・成宗1年1月2日条には、「亀城君を王にすべきだった」と発言した者が不忠の言をなしたとして取り調べられた事件が記録されています。
この発言が発端となり、関連人物が次々に逮捕・尋問され、亀城君もまた嫌疑の対象となりました。この事件は、史料上「旧功臣勢力の策略」とは明記されていませんが、若くして高位に就いた亀城君を狙い撃ちする政争の性格を帯びていると考えられます。
亀城君の最後
1470年に流刑となった亀城君は1479年、流刑地で亡くなっています。享年39歳でした。
寧海安置浚死, 命賜米豆各十碩、紙四十卷。<成宗実録:成宗10年1月28>
政治の頂点に立った亀城君が、わずかな疑惑から奈落へ転落した生涯は、世祖期の宗親登用政策と旧功臣勢力の対立が生んだ象徴的な悲劇でした。
1697年、粛宗の時代に亀城君の冤罪が晴らされ、名誉は回復しています。
亀城君の生涯年表
亀城君の生涯を一覧でご紹介します。
| 年 | 出来事 |
| 1441 | 漢城府で臨瀛大君の次男として生まれる |
| 1466 | 科拳の武科に合格 |
| 1467 | 兵曹判書に任命される |
| 1468 | 大将に任命され李施愛の乱を鎮圧する |
| 1468 | 28歳で領議政に任命される |
| 世祖が崩御。睿宗が即位。摂政を務める | |
| 1469 | 父・臨瀛大君が死去 |
| 1470 | 亀城君誣告事件 |
| 慶尚道寧海に流刑となる | |
| 1479 | 流刑地で逝去(享年39歳) |
| 1697 | 官職が回復される(粛宗の時代) |
まとめ
世祖は旧功臣勢力を排除するため、新興勢力を積極的に登用。その中で亀城君は朝鮮史上最年少で領議政に任命されました。
彼自身に王位への野心はありませんでしたが、高位に就いたことで功臣勢力の警戒を受け、ついには不忠の疑いをかけられました。成宗元年の誣告事件は彼が政争の標的となったことを物語り、最終的に流刑の地で生涯を閉じています。
政治の頂点からの転落は、世祖期の宗親登用政策と既存功臣勢力との激しい対立が生んだ悲劇であり、この事件以降、王室に近い宗親の実務登用には慎重になっていきます。