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イ・サンの最終回の王子は誰の子?【次の王の生母は誰?】

「イ・サン」の最終回に登場した王子は、イ・サンの側室・綏嬪朴氏(スビン パクシ)の子供です。

この子供はイ・サンの次の王である第23代国王の純祖です。

純祖の生母について詳しく調べてみました。

 

イ・サンの最終回の王子は誰の子?

最終回に登場する王子の母親は綏嬪朴氏(スビン パクシ)です。

綏嬪朴氏はドラマ「イ・サン」には出てきませんでしたが、イ・サン(正祖)の4番目の側室です。

<正祖の4人の側室>

名前 側室年 没年 子女有無 備考
元嬪洪氏 1778 1779 子女なし 洪國栄の妹
和嬪尹氏 1780 1824 子女なし
宜嬪成氏 1782 1786 子女死去 ヨンソンのモデル
綏嬪朴氏 1787 1822 1男1女 純祖の生母

注:側室年は側室になった年です。

綏嬪朴氏はソンヨン(宜嬪成氏)が亡くなった翌年の1787年に貞純大妃によって側室に選ばれました。

正室の孝懿王后と側室の和嬪尹氏に子供ができなかったからです。

そして、綏嬪朴氏は1790年に純祖を出産しています。

 

イ・サン(正祖)が1800年に亡くなったとき、純祖は11歳(日本では10歳)でした。

従って、ドラマ「イ・サン」に登場する純祖はまだ10歳頃の王子ということになります。

 

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純祖の生母はどんな人?

綏嬪朴氏(スビン パクシ)は性格が温厚で控えめだったと言われています。

そのため、王の生母の割にはほとんど目立った言動がみあたりません。

事実、義理の祖母の貞純王后、姑の恵慶宮、正室の孝懿王后に対しても礼を尽くして、特にイザコザもなく暮らしました。

<綏嬪朴氏のプロフィール>
生年:1770年5月8日
没年:1822年12月26日
享年:53歳(日本では52歳)
父親:朴準源
母親:原州元氏
兄: 朴宗輔、 朴宗慶
姉: 二人
子供:純祖( 第23代国王)、淑善翁主

これは、推測ですが、温厚な綏嬪朴氏の人柄と実家の勢力に目をつけたのが貞純王后ではないでしょうか。

実際、後に、純祖が即位すると貞純王后は代理で政治を行い、綏嬪朴氏の父親や兄弟を重要な官職につけていきました。

 

こうして、朴氏の一族は一大勢力になっていきます。

綏嬪朴氏は温厚で控えめな性格でしたが、一族の性格はギラギラとした野望に満ちたものでした。

 

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綏嬪朴氏が側室に選ばれた理由

それは、まさに跡継ぎへの期待でした。

綏嬪朴氏が側室になる前に側室になったのが和嬪尹氏(ファビンユン)でした。

 

和嬪尹氏はドラマでは女の子を生んでいますが、史実では子供はできませんでした。

懐妊の兆候があり、お産の準備のための産室庁が設置された記録はありますが、子供を生んだ記録がありません。

産室庁も解散されてしまいます。

このことから、和嬪尹氏の懐妊は想像妊娠だったと言われています。

 

また、女の子を出産したが、すぐに亡くなったという説もあります。

ドラマ「イ・サン」はこの説で作られました。

 

実は、正式な史料ではありませんが、和嬪尹氏が宜嬪成氏を罵り、ヒステリックになったため部屋に閉じ込められたとの記録もあります。

これは、側室でもない宜嬪成氏に男の子が生まれたからです。

 

こうしたことから、和嬪尹氏には王子が期待できなかったのでしょう。

そこで、側室に選ばれたのが、後に純祖を生むことになる綏嬪朴氏でした。

 

純祖はどんな王様だったのか?

まずは、純祖のプロフィールをご紹介します。

純祖はイ・サン(正祖)と側室の綏嬪朴氏(スビン パクシ)との間に生まれましたが、王位を継ぐために、孝懿王后の養子になっています。

 

純祖のプロフィール

生年:1790年7月29日
没年:1834年12月13日
在位:1800年-1834年
享年:45歳(日本では44歳)
姓・諱:李玜(イ・ゴン)
父:正祖
母:孝懿王后
生母:綏嬪朴氏
陵墓:仁陵

 

お飾り的な王様だった純祖

純祖は幼くして王位を継いだため、王様としての権力を行使することができませんでした。

即位したときは、まだ、幼いため、曽祖母の貞純王后(チョンスンワンフ)が代理で政治を行いました。

 

そして、貞純王后が亡くなった後には、今度は正妻の純元王后(スヌォンワンフ)の父親である金祖淳(キム・ジョスン)が政治の主導権を握ってしまいました。

金祖淳の安東金氏一族が朝廷を掌握します。

 

なんとか、主導権を取り戻したい純祖は息子の孝明世子(ヒョミョンセジャ)の妻に豊壌趙氏(プンヤン・チョシ)の娘を迎えます。

豊壌趙氏の一族を重要な官職につけて、安東金氏の一族に対抗しようと考えたのです。

 

1827年から19歳の孝明世子に代理聴政(テリチョンジョン)を行わせ、豊壌趙氏一族の勢力拡大を図りました。

これにより、純祖の思惑通りに進んでいくと思われましたが、1830年に孝明世子が急死してしまいました。

 

再び、安東金氏の一族が勢いを盛り返したのです。

結局、イ・サン(正祖)の血を引く純祖は政治の主導権を握ることなく、亡くなってしまいました。

 

純祖の家系図

純祖はイ・サン(正祖)と側室の綏嬪朴氏の間の息子で次男にあたります。

<純祖の家系図>

純宗の息子の孝明世子は22歳で亡くなってしまいます。

そこで、孝明世子の息子が憲宗として王位を継ぎますが、憲宗には子供はいませんでした。

こうして、イ・サン(正祖)の血筋は憲宗で途絶えてしまいました。

 

純祖の家族

純祖は多くの側室を持つことをしませんでした。

そのため、息子も孝明世子一人であり、この息子も22歳の若さで亡くなってしまいました。

<純祖の家族>

関係 称号 子女有無 子女 備考
正室 純元王后 1男4女 孝明世子 22歳で死去
公主 早世
明温公主
福温公主
徳温公主
側室 淑儀朴氏 1女 永温翁主

純祖についてより詳しくは>>純祖の家系図【偉大な名君・正祖を継いだ悲劇の王】をご覧ください。

 

まとめ

イ・サンの最終回に登場した王子は第23代国王の純祖でした。

純祖は小さいときから、イ・サン(正祖)より次期国王として期待されていました。

 

しかし、幼くして国王になったために当初は曽祖母の貞純王后が代理聴政を行いました。

貞純王后が亡くなってからは、今度は妻の出身の安東金氏一族による勢道政治が行われました。

 

このように純祖はイ・サン(正祖)から期待されていましたが、全く政治の主導権を握ることなく生涯を終えました。

もし、イ・サン(正祖)が知ったら本当に悲しんだことでしょう。

 

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