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正祖(イ・サン)の4人の側室【最も寵愛を受けた側室は?】

正祖(イ・サン)は女性に興味がなかったと言われていますが、生涯に4人の側室をもちました。

側室が派閥の勢力源である時代に、正祖(イ・サン)は意図的に側室制度を利用して、王室の安定と政治的基盤の強化を図ったと考えられます。

 

計算尽くのイ・サンですが、実は、ただ一人寵愛した側室がいました。

ドラマ「イ・サン」のソンヨンのモデルになった宜嬪成氏(ウィビンソンシ)です。

「赤い袖先」では、ドギムのモデルですね。

 

この記事では、イ・サンの4人の側室についてご紹介していきます。

正祖(イ・サン)の4人の側室

<4人の側室>
・元嬪洪氏(ウォンビンホンシ)
・和嬪尹氏(ファビンユンシ)
・宜嬪成氏(ウィビンソンシ)
・綏嬪朴氏(スビンパクシ)

まずは、史実における正祖(イ・サン)と側室の関係を相関図でご説明します。

イ・サンと側室の相関図

<イ・サンと側室の相関図>

最初の側室・元嬪洪氏はイ・サンの片腕の洪国栄(ホン・グギョン)の妹で、兄の政略で側室になりましたが、たったの1年の宮殿生活で亡くなりました。

そこで、急遽、側室として選ばれたのが漢城府の判官・尹昌胤の娘・和嬪尹氏(ファビンユンシ)でしたが、彼女は子供ができす、ヒステリックになり幽閉されています。

 

宜嬪成氏(ウィビンソンシ)の父・成胤祐は洪鳳漢(正祖の義祖父)の使用人でしたが、和嬪尹氏が側室になる前から正祖の寵愛を受けていました。

宜嬪成氏が亡くなって側室に選ばれたのが、後に正祖の跡継ぎである第23代国王・純祖を生む、綏嬪朴氏(スビンパクシ)です。

 

では、一人ひとり、エピソードを中心にご紹介していきます。

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悲劇の側室・宜嬪成氏

<宜嬪成氏のプロフィール>
生年:1753年7月8日
没年:1786年9月14日
享年:34歳
父:成胤祐(贈賛成)
母:林氏(贈貞敬夫人)
子供
長男:文孝世子(4歳で逝去)
長女:翁主(2ヶ月で逝去)

宜嬪成氏は、正室の孝懿王后を思いやり側室を拒否していましたが、1782年に文孝世子を出産し側室となりました。

しかし、1784年には長女を亡くし、1786年には文孝世子も失います。

その年の9月、出産を目前に彼女自身も命を落とすという悲劇に見舞われました。

 

正祖は深く悲しみ、「正祖実録」には「病状が奇怪(常識では考えられないような急変)でこのような事態になった。もう国事を託せない」と記されています。

国事とは王子の出産のこと、つまり、「今後、誰かを愛することはない」と決意する正祖の落胆ぶりを表したものと考えます。

 

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嫉妬に揺れた側室・和嬪尹氏

<和嬪尹氏のプロフィール>
生年:1765年4月11日
没年:1824年1月14日
享年:60歳
父:尹昌胤
母:碧珍李氏
子供なし

和嬪尹氏は1780年、16歳で正祖の側室となりますが、気性が荒く嫉妬深い性格でした。

そのため、「想像妊娠」で騒がせたり、正祖の寵愛する宜嬪成氏に王子が誕生すると、嫉妬に駆られ、呪術を用いたとされています。

 

この罪により彼女は幽閉され、正祖から見放されてしまいます。

和嬪尹氏は最期まで子供に恵まれることなく、60歳で寂しい生涯を終えました。

更に詳しい内容は>>イ・サンの2番目の側室ファビン(和嬪尹氏)とはどんな女性? をご覧ください。

 

息子の即位を見た唯一の側室・綏嬪朴氏

<綏嬪朴氏のプロフィール>
生年:1770年6月1日
没年:1823年2月6日
享年:54歳
父:朴準源
母:原州元氏
子供
長男:純祖(第23代国王)
長女:淑善翁主

綏嬪朴氏は1787年、跡継ぎを心配した貞純大妃の推薦で正祖の側室となりました。

彼女は1790年に純祖を出産して、側室の役目である王位継承者の誕生に大きく貢献しています。

 

宜嬪成氏を失い「誰も愛さない」と言った正祖でしたが、温厚で質素な綏嬪朴氏を深く寵愛し、自身の隣の住居に住まわせるほどでした。

彼女は義祖母や姑、正室とも良好な関係を築き、王室を支えました。

 

1800年、正祖の死後、息子の純祖が即位したことで、綏嬪朴氏は朝鮮王朝史上、息子の即位を見届けた唯一の側室となりました。

更に詳しくは>>綏嬪朴氏の家系図【イ・サン(正祖)の次の王・純祖を生んだ側室】をご覧ください。

 

野望の犠牲となった元嬪洪氏

<元嬪洪氏のプロフィール>
生年:1766年5月27日
没年:1779年5月7日
享年:14歳
父:洪楽春
母:牛峰李氏
子供なし

元嬪洪氏は1778年、13歳で正祖の側室となりました。

兄・洪国栄は妹を側室にすることで王室の親族となり、権力を拡大しようとしたのです。

しかし、元嬪洪氏は入宮からわずか1年で病に倒れます。

 

突然の死に洪国栄は不信を抱き、王妃に毒殺を疑ったといいます。

「閑中録」には、妹の死を信じられない洪国栄が女官に拷問を加えたと記録されていますが、王妃の罪を証明することはできませんでした。

 

幼くして側室となり、兄の野望の犠牲となった元嬪洪氏は、正祖の側室の中で最も哀れな存在だったのかもしれません。

更に詳しい内容は>>イ・サンのウォンビンは実在した悲劇の側室【洪国栄の妹って本当?】をご覧ください。

 

正祖(イ・サン)の子供

正祖は2人の側室、宜嬪成氏と綏嬪朴氏の間に2男2女の子供をもうけました。

子供は生涯たったの4人でした。

 

しかも、成人したのは綏嬪朴氏の子供の1男1女でした。

綏嬪朴氏の息子が第23代国王の純祖として王位を継承しました。

<正祖の子供たち>

関係 称号 子女有無 子供
正室 孝懿王后 子女なし
側室 宜嬪成氏 1男1女 文孝世子(早世)
翁主(早世)
綏嬪朴氏  1男1女 純祖
淑善翁主
元嬪洪氏 子女なし
和嬪尹氏 子女なし

 

正祖時代の側室制度の特徴

正祖は側室制度を政治的に配慮しながら王室の安定化を図るように利用しました。

即位当時、老論派が権力を握り、政治基盤が弱かった正祖は、派閥争いの火種となる側室の増加には大変慎重でした。

一方で、王位継承者の確保は避けられず、4人の側室を迎え純祖を得て王室の安定を図りました。

 

また、文化や芸術が栄えた時代背景の中で、側室たちも詩や書画に親しみ文化振興に寄与しました。

そして、宜嬪成氏や綏嬪朴氏のように正祖に安らぎを与える存在もおり、側室制度は正祖が政治に専念できる環境を生み出す重要な制度として機能しました。

 

正祖(イ・サン)の側室の階級

側室は品階と呼ばれる階級で上下の区別がされていました。

側室の品階は従四品の淑媛(スグォン)から最高位(正一品)の嬪(ピン)まで、8段階に別れています。

正祖の4人の側室は全て、◯嬪と呼ばれているように側室の最高位に位置づけられていました。

<側室の品階>

品階 称号
正一品 嬪(ピン)
従一品 貴人(クィイン)
正二品 昭儀(ソイ)
従二品 淑儀(スギ)
正三品 昭容(ソヨン)
従三品 淑容(スギョン)
正四品 昭媛(ソウォン)
従四品 淑媛(スグォン)

 

史実で見る側室の年表

ドラマと史実とは側室になった順番が違います。

そこで、史実を年表で整理してみました。

出来事
1766年 宜嬪成氏が寵愛を受ける
1778年 元嬪洪氏が13歳で側室になる
1779年 元嬪洪氏が亡くなる
1780年 和嬪尹氏が16歳で側室になる
1782年 宜嬪成氏が文孝世子を出産、30歳で側室になる
1786年 文孝世子が亡くなり、宜嬪成氏も亡くなる
1787年 綏嬪朴氏が18歳で側室になる
1790年 綏嬪朴氏が純祖を出産する
1800年 純祖が国王になる
1823年 綏嬪朴氏が54歳で亡くなる
1824年 和嬪尹氏が60歳で亡くなる

史実では、洪国栄の妹の元嬪洪氏が最初の側室になっています。

しかし、すぐに亡くなり、和嬪尹氏が側室になりますが、子供は生まれませんでした。

 

宜嬪成氏に男の子ができますが、4歳で亡くなってしまいます。

そして、最後の側室・綏嬪朴氏が後の国王となる純祖を生むことになります。

 

まとめ

正祖(イ・サン)は、生涯で4人の側室を持ち、王室の安定と政治的基盤の強化に側室制度を活用しました。

特に宜嬪成氏と綏嬪朴氏の存在は、正祖の心に安らぎを与え、政治を支える重要な役割を果たしました。

 

一方で、和嬪尹氏や元嬪洪氏のエピソードは、時代背景や王室の複雑な人間関係を映し出しています。

正祖の側室たちの人生は、それぞれに悲劇や功績があり、王朝の運命を支える歴史の一部として語り継がれています。

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