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高麗時代に関する史料
高麗時代の基本史料は少なく、現在使用できるのは1451年に完成した紀伝体の「高麗史」と翌年の1452年に完成した編年体の「高麗史節要」のみです。
高麗史
高麗史は高麗王朝(918年 – 1392年)のことを紀伝体で記録した史書です。
高麗史は1392年に編纂が開始されてから、改修に改修を重ね、60年かけて1451年にようやく完成しました。
紀伝体(きでんたい)は本紀、列伝、志、表から構成する正史の代表的な記述方法です。本紀は歴代王の年代毎の出来事,列伝は個々の人物の伝記、表は年表や月表、志は気候、天文、地理、制度などの分野別の歴史を記録しています。本紀と列伝が中心なので紀伝体と呼ばれています。これに対して、編年体(へんねんたい)は起こった出来事を年月の順に記述する方法です。
高麗史は、朝鮮建国後に鄭道伝や趙浚らの建国功臣によって編纂されたため、李成桂を正当化する立場で書かれています。
従って、史実が歪曲されている部分があると言われています。
また、元になった高麗実録や公私文書の多くが外敵の侵攻や内乱により、消失または焼失したため、内容の簡略や誤りが多いとも指摘されています。
高麗史の改修作業
高麗史は60年の間に何回も改修を重ねて完成されました。
年月 | 内容 |
1392 | 10月、李成桂が鄭道伝、趙浚、鄭摠らに高麗時代の歴史の編纂を命じる |
1395 | 編年体の高麗国史が完成する |
しかし、王を皇帝と称し、明への配慮が欠けていること、朝鮮建国過程の記録が欠けていることなどが指摘される | |
1414 | 太宗が河崙、卞季良らに改修を命じる |
1416 | 責任者の河崙が亡くなり、改修作業が未完の状態で終わる |
1419 | 9月、 世宗は高麗国史の恭愍王以後の記述に誤りがあると指摘して、柳寬、卞季良に改修を命じる |
1421 | 高麗国史がようやく完成するが、使用されている用語の問題で頒布されず |
1423 | 柳寬、尹淮に再び、改修を行う |
1424 | 完成後、讎校高麗史と称されるが、内容に問題があるとして頒布されず |
1438 | 権踶、申槩らが改修を始める |
1442 | 高麗史全文として完成するが、不出来として公開されず |
このとき、辛禑・辛昌は偽の王族とし、世家の項目から列伝に移している | |
1449 | 世宗は金宗瑞、鄭麟趾、李先齊らに再び、改修を命じる |
1451 | 編年体を紀伝体に改め、現在に伝わる高麗史がようやく完成する |
高麗史の編纂は元来、編年体で進められていましたが、最終的に紀伝体でまとめられました。
編年体で進められたものは、高麗史ができた翌年に、同じく鄭麟趾らにより、高麗史節要としてまとめられています。
高麗史の構成
高麗史の構成は、紀伝体の形式に従って、本紀、志、表、列伝で構成されています。
ただし、本紀は編纂時に宗主国である明への遠慮により、世家と変えて王の位を一段落として記録されています。
構成 | 巻 | 内容 |
世家 | 巻1-巻46 | 初代太祖から恭讓王までの王の記録 |
志 | 巻47-巻85 | 天候気候、天文、地理、雅樂、刑法などの社会の現象を記録 |
表 | 巻86-巻87 | 高麗の宗主国の暦年と高麗暦年の表 |
列伝 | 巻88-巻137 | 后、子、重臣、逆臣などの記録 |
第32, 33代高麗王の禑王、昌王は王としてではなく、偽の王族として辛禑 辛昌と卑称で反逆者として「反逆列伝」に記録されています。
高麗史節
鄭麟趾、金宗瑞らが、編年体で進められていた高麗史を、そのまま編年体でまとめた史書です。
高麗史の節要(ダイジェスト)という位置づけですが、高麗史とは別に編纂されたため、独自の記事も多くあり、高麗史よりも詳しい記述もあります。
高麗時代の史料は少なく、高麗史とともに貴重な史料をなっています。
全35巻から構成されています。
高麗実録
朝鮮王朝実録に相当する高麗実録があったことは、高麗史の記録で知ることができます。
高麗時代の黃周亮という人物が、契丹兵による第二次侵攻で焼失した高麗実録の復活を命じられています。
契丹(遼)は、当時中国大陸の北部を支配していた国で、993年頃から5回に渡り高麗に侵攻しています。
初契丹兵陷京城,燒宮闕,書籍盡爲煨燼。周亮奉詔訪問採掇,撰集太祖至穆宗七代事跡,共三十六卷以進。
<引用元:高麗史列傳第八 黃周亮>
また、朝鮮王朝実録の世宗実録からも高麗実録の存在を確認することができます。
然《三國史》及《高麗實錄》所不載, 未詳是否
<引用元:世宗実録150巻地理地/慶尚道/慶州部/蔚山郡>
世宗実録1449年2月22日にも、高麗実録に関する記録が見られます。
高麗史は高麗実録を元に書かれましたが、高麗史完成後の高麗実録の存在は不明です。
高麗実録には、禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたと言われています。
朝鮮王朝の都合により、多くの点で改ざんされた高麗史と矛盾が生じるため、1451年の完成後に、参照された高麗実録は抹消されたと考えられます。