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李仁任は実在した?【高麗史に記録された高麗末期の重臣】

李仁任(イ・イニム)は、李成桂の政敵として知られる高麗末期の重臣です。その実在は、『高麗史』列伝第三十九「李仁任伝」によって確認できます。

この記事では『高麗史』をもとに、李仁任の人物像、家族構成、そして高麗末期の政局で果たした役割まで詳しく解説します。

実在した李仁任はどんな人物?

李仁任(イ・イニム)は高麗後期の重臣で、最終的に門下侍中(最高位)にまで上り詰めた政治家です。『高麗史』によれば、恭愍王禑王の時代に政権を掌握し、高麗末期の政局を左右した中心人物でした。

李仁任のプロフィール

李仁任は『高麗史』には姦臣※として記録されており、史料における評価はよくありません。
※姦臣(かんしん):国政を乱した不忠な臣下

ただし、これらの記述は李成桂が建国した朝鮮王朝成立後に編纂された史書である点に注意が必要です。

<プロフィール>
李仁任(イ・イニム)
爵位:広平府院君
生年:1312年
没年:1388年(享年77歳)
氏族:星州李氏
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李仁任の家系図

李仁任(イ・イニム)は李純由を始祖とする名門・星州李氏の出身です。祖父の李兆年、父の李褒はいずれも高麗の高官で、李仁任は蔭敍※によって官界に入りました。

高麗後期は、門閥貴族層が政治を主導する社会であり、家柄は昇進に大きな影響を与えていました。

※蔭敍(おんじょ):功績のあった高官の子孫が無試験で官職に採用されること

李仁任の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<李仁任の家系図>

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婚姻による政治基盤の強化

李仁任(イ・イニム)は姻戚関係を通じて政治基盤を固めています。

李仁任の婚姻関係

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<李仁任の婚姻関係>

・禑王の王妃・謹妃の父 李琳とは従兄弟関係
・甥の興安君は李成桂の娘・慶順公主と婚姻
・河崙は弟・李仁美の娘婿

このように、後の朝鮮王朝建国勢力とも婚姻関係を持っていました。

李仁任の家族

李仁任(イ・イニム)は、父・李褒と母・慶州郡夫人の間に6男2女の次男として生まれました。

関係 名前 生年-没年 備考
李褒 不詳-1373 同知密直
慶州郡夫人 不詳 慶州雪氏、薛文遇の娘
李仁復 1308-1374 檢校侍中
本人 李仁任 1312-1388 門下侍中
李仁美 不詳 判書、河崙の義父
李仁立 1333-1387 同知密直司事、慶順群主の義父
李仁達 不詳 注簿
李仁敏 1330-1392 門下評理、星山府院君
不詳  不詳 辛裔の妻
不詳  不詳 朴天祥の妻

李仁任の妻子

李仁任には2男3女の子供がいましたが、詳しい記録はありません。

僅かな記録として『高麗史』に、1386年、李仁任の娘(姜筮の妻)が亡くなり、禑王が自ら書師を連れていき、娘の遺影を描かせたことが記録されています。

関係 名前 生年-没年 備考
順天朴氏 不詳
長男 李瓛 不詳
次男 李珉 不詳
長女 不詳 不詳 李霖の妻
次女 不詳 不詳-1386 姜筮の妻
三女 不詳 不詳
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李仁任の生涯

歴代高官の一族に生まれた李仁任は、官僚になると順調に出世していき、政界の最高位へと上り詰めます。しかし、その専横により最期は失脚。『高麗史』には奸臣(邪悪な臣下)として記録されています。

政界入りと紅巾賊撃退

李仁任は蔭敍制により典客寺丞となり、1358年には左副承宣(正三品)に昇進します。

1359年・1362年の紅巾賊侵攻では戦功を挙げ、李仁任は軍功と政治力で地位を高めていきました。

朝廷での昇進と恭愍王の逝去

李仁任は恭愍王の信頼を得て順調に昇進していきます。1368年には左侍中、1374年には守侍中となり、広平府院君に封じられます。

同年、恭愍王が殺害されると、李仁任は明徳太后(恭愍王の母)の反対を押し切り、王子・牟尼奴(後の禑王)を即位させました。この決定が、後の政局を大きく左右します。

禑王政権と実質的な摂政

禑王は幼少で即位したため、明徳太后が摂政を行いましたが、実権は李仁任が掌握しました。『高麗史』には、禑王が李仁任を父と呼んだとの記録があり、強い影響力を持っていたことがうかがえます。

1380年、明徳太后が亡くなり、李仁任が摂政に就任。1381年には、門下侍中※となり、事実上の最高権力者となりました。

※門下侍中:朝廷の最高位。朝鮮王朝の領議政に相当

親元政策と李成桂との対立

当時の高麗は、元との関係を重視する親元派と明との関係を重視する親明派に分かれていました。李仁任は親元政策を維持し、親明派勢力を排除します。

一方、李成桂は次第に軍事的実力を背景に李仁任の対抗馬として台頭していきます。特に1388年の遼東出兵を巡る対立は、親明派と親元派の対立が頂点に達した瞬間でした。

この政争の延長線上に、李仁任一派の粛清があります。

李仁任一派の専横

『高麗史』には、林堅味(イム・ギョンミ)・廉興邦(ヨム・フンバン)ら側近が賄賂、土地強奪、官職の売買などの不正で私腹を肥やしたと記録されています。

李仁任は1382年に病で一時政務から退きますが、禑王の李仁任に対する依存心は強く、禑王が頻繁に李仁任の家を訪れた記録が残っています。1386年、李仁任は再び政界に復帰しますが、翌年、老病により辞任しています。

※老病:老衰によって起こる病気

戊辰被禍と李仁任の最期

1388年、廉興邦の家奴・李光による土地強奪事件を契機に、崔瑩と李成桂は林堅味・廉興邦らを処刑しました。これが戊辰被禍(ムジンピファ)です。李仁任は京山府(慶尚北道)へ流刑となりました。

誅林、廉,安置仁任于京山府
<高麗史第一百二十六:李仁任伝十四年の条>

<訳>林堅味・廉興邦を誅殺(処刑)し、李仁任を京山府に安置(流刑)にした

『高麗史』によれば、「正直と称えられる崔瑩が、私情であの老いた奸臣を生かした」と記録されています。

李仁任の息子や一族男子に対しても連座は行われませんでした。しかし、再び繁栄を見ること無く、流配された年に李仁任は流刑地で亡くなっています。

まとめ

李仁任は『高麗史』に明記された実在の高麗後期の重臣です。紅巾賊討伐の功により恭愍王の信任を得て、禑王政権下では親元政策を基本に国政を主導しました。

しかし、親明路線を掲げて軍事的影響力を強めた李成桂と対立し、戊辰被禍という政変で失脚します。

その権力闘争は、やがて朝鮮王朝建国へとつながる転換点となりました。李仁任は、高麗滅亡の政治過程を読み解く上で欠かせない人物の一人です。

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