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光海君の次の王は仁祖【仁祖反正と暴君説を徹底解説】

光海君の次の王は第16代国王・仁祖です。彼はクーデターを起こして光海君を倒し王位に就きました。この事件は仁祖反正として朝鮮の歴史に刻まれています。

この記事では、なぜ仁祖はクーデターを起こしたのか、光海君は本当に暴君だったのか、仁祖反正の真相と影響に迫ります。

仁祖がクーデターを決行した最大の理由

仁祖(綾陽君)が光海君に恨みを抱いた背景には「廃母殺弟」と呼ばれる事件があります。

即位後、光海君は王位を脅かす存在と見なした兄・臨海君や永昌大君を殺害し、仁穆大妃を廃妃・幽閉しました。

その過程で仁祖の弟・綾昌君も謀反の罪で処刑され、父・定遠君も失意の中で死去します。仁祖は一族を失った恨みを抱え、それが「仁祖反正」の個人的な動機となりました。

<豆知識>廃母殺弟とは
光海君が義弟・永昌大君を殺害、義母・仁穆大妃を廃妃して幽閉した出来事を「廃母殺弟」と呼んでいます。
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仁祖はどんな王だったのか?

仁祖は第14代国王・宣祖の孫にあたり、光海君の甥にあたります。

光海君と仁祖の関係

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<光海君と仁祖の関係>

仁祖は幼少期は無口でしたが読書が得意で、祖父・宣祖に愛され綾陽君の称号を得ました。1610年に仁烈王后と結婚し、1612年に昭顕世子が誕生しています。

本来は王位から遠い立場でしたが、西人派に推されクーデターで即位しました。

仁祖について詳しくはこちら>>綾陽君(ぬんやんぐん)の家系図

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仁祖の治世と失策

仁祖の治世は丙子の乱(1636年)での降伏が象徴的です。新興勢力・後金(後の清)を軽視した結果、清軍が侵攻。仁祖は降伏し、清皇帝に三跪九叩頭の礼を強いられました。

さらに莫大な賠償金と三人の王子を人質に出す屈辱的な条件を受け入れ、以後、朝鮮は清の属国として扱われました。この失政から、仁祖は「情けない王」として歴史に刻まれています。

<豆知識>仁祖反正の長期的影響
仁祖反正は王位交代だけでなく、西人派と南人派の党争激化や、清との従属関係の固定化など、朝鮮政治に長期的な影響を与えました。

光海君は本当に暴君だったのか?

光海君が暴君とされるのは、王位をめぐる兄弟や一族の粛清が理由です。

しかし、兄弟を排除して王権を確立したのは、太宗(李芳遠)や世祖(首陽大君)など歴代の王にも見られた行為でした。それにもかかわらず、光海君だけが暴君とされたのは、クーデターを正当化するために光海君を悪者にする必要があったのです。

近年の研究では、光海君は現実的な外交・改革を行った王と評価されています。明と後金の狭間で中立外交を模索し、医療や土地制度改革を推進した点は特に注目されます。

また、近年、「華政」「王の顔」「王になった男」など、光海君を暴君ではなく、人間味有る名君として扱ったドラマが数多く作られています。こうした作品は光海君再評価の流れを一般層に広める大きな役割を果たしています。

光海君のドラマについてはこちら>>光海君をモデルにしたドラマ7選【残虐な暴君!それとも名君】

廃位された王の悲劇

歴史上、廃位された王は燕山君と光海君の二人だけです。廃位された王は、当然、歴代の王のような処遇を受けることはありません。

・廟号は与えられず「君」のまま
・実録に編纂されず「光海君日記」
・墓は王陵(陸)ではなく、墓(ミョ)

廟号(びょうごう:亡くなった後に贈られる称号「◯祖」「◯宗」

王室のお墓は次の3つに分類されています。
陵(ヌン):王と王妃の墓
園(ウォン):世子や世子嬪(世子の妻)と王の親族の墓
墓(ミョ):上記以外の王室の墓

光海君の最後

クーデター後、光海君は仁穆大妃の前で罪を読み上げられ、家族とともに流刑となりました。

江華島、さらに済州島に移され、1641年に66歳で没しています。墓は王妃の文城君夫人柳氏とともに南楊州市にあり、王陸ではなく「光海君墓」として質素に祀られています。

まとめ

光海君の次の王は仁祖でした。仁祖はクーデターで王位に就きましたが、丙子の乱での屈辱的降伏など失策が目立ち、評価は低いものでした。

一方、光海君は「暴君」とされてきましたが、その根拠はクーデター正当化のために作られたものであり、近年は再評価が進んでいます。

仁祖反正は、朝鮮王朝の政治闘争と王権の不安定さを象徴する重要な出来事でした。

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