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昌王の家系図【禑王の子として即位した高麗滅亡直前の幼王】

歴史にほとんど記録を残さなかった昌王。昌王とはどのような王だったのか。

この記事では、昌王の家系図をもとに、昌王の血統、人物像、家族構成、そして王位継承問題を史料に基づき詳しく解説します。

昌王の家系図

昌王(チャンワン)は、高麗第32代国王・禑王の長男として生まれました。祖父は高麗第31代国王の恭愍王です。したがって、恭愍王→禑王→昌王という形で王位は受け継がれてきました。

昌王の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<昌王の家系図>

しかし、禑王は僧・辛旽の子であるという説が広まり、王氏の血統ではないとする主張が現れます。この主張により、父・禑王は「辛禑」、昌王は「辛昌」と呼ばれることもありました。

この後、昌王の血統問題は、単なる家系の問題ではなく、高麗王朝の存続を左右する政治問題へと発展していきました。

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昌王はどんな王だったのか?

昌王は1388年、わずか9歳で王位に就きました。しかし、翌1389年、正統な王位継承者ではないという理由で廃位され、その後まもなく父・禑王とともに処刑されています。わずか10歳でした。

在位は約1年ほどであり、そのため昌王自身の政治活動を示す史料は残っていません。昌王は、高麗王朝が滅亡し、朝鮮王朝へと移り変わっていく激動の時代に擁立された幼い王だったのです。

昌王のプロフィール

昌王(チャンワン)
第33代国王
生年:1380年8月7日
没年:1389年12月14日(享年10歳)
在位:1388年7月12日-1389年12月2日
父:禑王
母:謹妃李氏(李琳の娘)
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昌王の家族

昌王は10歳で廃位され処刑されたため、王妃を迎えることもなく子もいませんでした。

父:禑王
母:謹妃李氏
妃:なし

父・禑王は辛旽の子だったのか?

昌王の父・禑王には、僧・辛旽の子であるという説があります。この説は、「高麗史」列伝第四十六「辛禑一や、「太宗実録」太宗3年11月15日条などに記されています。

詳しくはこちら>>禑王の家系図【禑王は誰の子?辛旽の子説を史料から検証】

しかし、これらの史書は高麗滅亡後の朝鮮王朝の時代に編纂されたものであり、当時の政治的立場が反映されている可能性が指摘されています。

特に、高麗を倒して朝鮮王朝を建国した李成桂の勢力にとって、禑王と昌王を王氏の血統ではないとする主張は、王朝交代を正当化する重要な根拠となりました。

禑王と昌王の血統問題については、現在でも評価が分かれており、議論が続いています。

なぜ昌王は王に擁立されたのか

1388年、威化島回軍によって実権を握ったのは李成桂と曺敏修でした。

曺敏修と李穡は禑王を廃位した後、その子である昌王を新しい王として擁立します。昌王はまだ9歳と幼く、王朝を維持したまま政治を主導しようとした曺敏修と李穡にとって、擁立しやすい存在でした。

しかし、新しい王朝の樹立を目指していた李成桂は、禑王と昌王の血統を否定し、二人を廃して恭譲王を即位させます。

李成桂と曺敏修の対立は、高麗王朝を維持しようとする勢力と、新しい王朝の建国を目指す勢力との政治的闘争でした。昌王の即位は、その権力争いの中で生まれたものだったのです。

昌王廃位の主張「廃仮立真」

禑王と昌王の廃位を主張した易姓革命派は、「廃仮立真」という言葉を掲げました。廃仮立真(ペガイプチン)とは、「偽物を廃し、本物を立てる」という意味です。

彼らは、禑王と昌王は辛旽の血を引く「偽の王」であり、正統な王を立てるべきだと主張しました。そのため禑王は「辛禑」、昌王は「辛昌」と呼ばれ、国王として認められなかったのです。

勢力を拡大した易姓革命派は、昌王を江華島へ流配し、王氏の血統である恭譲王を王位に就けました。また、昌王の即位を支持した王朝擁護派の曺敏修と李穡は流罪となりました。

<豆知識>易姓革命とは
鄭道伝を中心とする易姓革命派が主張した易姓革命とは「姓を易える」、つまり、高麗の王(王氏)を変えて、新たな王(李氏)を立てることを意味します。

昌王の生涯

1380年、昌王は禑王と謹妃李氏の長男として生まれました。

1388年、李成桂と曺敏修による威化島回軍が起こり、父の禑王は廃位されます。これにより、昌王は曺敏修と李穡の推薦を受けて王位に就きました。

しかし、翌1389年には、正統な王位継承者でないと言う理由で廃位、禑王とともに処刑されてしまいます。享年10歳でした。

まとめ

昌王は禑王の長男として生まれ、わずか9歳で高麗第33代国王として即位しました。しかし、父とともに血統を疑われ、正統な王とは認められませんでした。その結果、昌王は10歳で廃位され処刑されてしまいます。

昌王の短い生涯は、高麗王朝が滅亡し朝鮮王朝へと移り変わる歴史の激動の中にありました。昌王はまさに、高麗王朝の存続を望む勢力と新しい王朝を目指す勢力の激しい対立に翻弄された幼き国王だったのです。

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