ドラマ「チャングム」に登場する王様・中宗は、体調を崩し最期は腸閉塞で亡くなっています。しかし、死因は本当に腸閉塞だったのか?
この記事では、「中宗実録」の記録をもとに、死因の真相、チャングムとの関係、そしてドラマとの違いを詳しく解説します。
実は謎に包まれた中宗の死因
中宗は1544年11月29日、38歳の若さでこの世を去りました。
ドラマでは腸閉塞とされていますが、実録には病名の明記はなく、正確な死因は不明です。
晩年の中宗は、たびたび便通がなかったことが記されており、これが腸閉塞説の根拠とされています。
且小便暫通, 大便, 則不通已三日
<中宗実録:1544年10月25日>
心配した世子(のちの仁宗)が病床に付き添って看病にあたったことが記録されています。
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史実から考えると、中宗の臨終の際、傍らにはチャングム(長今)がいたと推測されます。
「中宗実録」には「予の証しは、女医之を知る(自分の病状は医女が最もよく知っている)」という有名な記述があり、これがチャングムを中宗の主治医とする根拠とされています。
実録の中でチャングムの名が登場するのは10か所あり、いずれも王の診察や功績に関する内容です。(詳しくはこちら>>中宗実録で知るチャングム実話|10箇所の史実を徹底解説)
彼女が正式に王の主治医であったかについては学者の間で意見が分かれていますが、少なくとも中宗が病に伏したとき、最も信頼を寄せていた医女がチャングムであったことは確かです。
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中宗は第11代国王で、暴君・燕山君の異母弟にあたります。母は貞顕王后 (チョンヒョンワンフ)、父は成宗。臣下たちのクーデター「中宗反正」によって即位しました。
中宗反正に関してはこちら>>中宗の家系図と中宗反正の全貌【燕山君の義兄弟だった王】
中宗が最も愛した端敬王后は、即位直後に王妃となりましたが、叔母が燕山君の正室だったため、わずか7日で廃位され宮廷を追われます。
最愛の妃を守れなかった中宗は、その後、臣下の顔色をうかがう優柔不断な王として知られるようになりました。中宗が病弱だった背景には、愛する人が忘れられない失意と常に臣下の意向を気にする精神的なストレスがあったと考えられます。
ドラマでの中宗とチャングムの出会い
ドラマ「チャングム」で中宗が初登場するのは、晋城大君(チンソンデグン)のときです。
幼いチャングムがクーデターの意思を知らせる酒瓶を密かに届ける場面(第3話)でした。これがきっかけでチャングムは後に宮中へ入ることになります。
史実ではこのような逸話は存在しません。しかし、チャングムと王を結ぶ物語の伏線として、歴史的な出来事を上手くドラマに組み込んだ巧みな構成でした。
まとめ
中宗の病気や死因は、現在も明確には分かってはいません。ドラマの中で描かれた腸閉塞という設定は、実録の「便通がなかった」という記録を根拠とした病状と考えられます。
しかし、中宗実録を読み解くと、晩年は床に伏せていることが多かったこと、チャングに絶対的な信頼をおいていたことは確かです。こうした史実と創作を巧みに組み合わせて生まれたチャングムの物語は、韓国時代劇の金字塔ともいえる作品です。