朝鮮王朝実録に記録されたチャングムの実話とは?
中宗実録に記録されたチャングムの史実を丁寧にご紹介します。
中宗実録で知るチャングムの実話
年代順にチャングムが記載されている記録をご説明していきます。
チャングムの名が初めて登場~中宗実録10年3月21日~
チャングムの名が中宗実録に初めて登場したのは、章敬王后(中宗の2番目の王妃)のお産に立ち会ったときでした。
その時は、チャングムの功績は認めながらも、何か問題があったようです。
中宗10年(1515年)のことです。
臺諫啓前事。憲府又曰: “前日戶曹啓請: ‘禪、敎兩宗, 革罷已久, 其位田。’刷充國用, 而敎以勿刷, 今不許度僧, 永絶根株, 則兩宗位田, 宜刷屬公, 而革罷寺刹位田, 竝宜刷之。”傳曰: “大抵人之死生, 豈關醫藥? 然進藥大王前, 失宜者, 論屬書吏, 固有前例。
未知於王后, 亦有此例耶? 其考前例以啓。且醫女長今, 護産有功, 當受大賞, 厥終有大故, 故未蒙顯賞。今縱不能行賞, 亦不可決杖, 故命贖杖, 此, 酌其兩端, 而定罪之意也。餘皆不允。”
—中宗10年3月21日医女長今はお産に功有り、大賞を受けるに値するが、大故(章敬王后が産後に死亡)があるため未だ賞を受けることができない。
賞を施すことはできず、刑場に送ることもできず、故に杖刑で贖うように命じたが、これはその両端を参酌して罪を定めた意である。引用元:Wikipedia「大長今」
医女のチャングム(長今)が章敬王后のお産を手伝った功績をたたえています。
しかし、章敬王后は3月10日に男の子を生みますが、16日深夜に亡くなってしまいます。
子供は助かり、中宗を継いで第12代王・仁宗になります。
チャングムは後の王様の出産に立ち会ったんですね。
王妃は男の子を生みますが、すぐに亡くなってしまいました。
そのため、お産を手伝ったチャングムに褒美を渡すことも、かといって重罪にすることもできないと記録しています。
世継ぎが生まれるということは国を上げての慶び事です。
特に初めての王子を無事に産ませたチャングムの功績は計り知れないほど大きかったのでしょう。
そのため、世継ぎを生むの手伝った功績を考慮して、重罪よりも軽い刑である杖刑を命じたと記録されています。
杖刑:木製の杖をもって背中又は臀部を打つ刑
ドラマにはこのエピソードは登場しません。
章敬王后が世子を生んだときは、まだチャングムは医女ではなく、水刺間で働く料理人の時代でした。
王の仁宗もドラマには登場することはなく、世子として登場するのみです。
翌日にも、同様の問題について記録されています。
(以下、実際の記述文は省略します)
—中宗10年3月22日
長今の罪は河宗海(ハ・ジョンヘ)よりも甚だしい。産後の衣を改める時にこれを止めることを請うていたら、どうして大故に致っただろうか?引用元:Wikipedia「大長今」
チャングムの罪は河宗海(主治医?)よりも重たいと言っています。
チャングムに王妃の産後の処置に不適切があったことを指摘しています。
適切な処置をしていれば、重大な問題にはならなかっただろうと記録されています。
チャングムは罪には問われますが、重罪にはならずに、この後も朝鮮王朝実録に登場しています。
これは、よっぽど王・中宗の信頼が厚かったのでしょう。
この後の実録には医女・チャングムとしての功績が多く記録されています。
大妃の看病の功績で褒美をもらうチャングム~中宗実録17年9月5日~
中宗の母親の貞顕王后をチャングムが看病して褒美をもらっています。
王様にとって母親はとっても大事な存在です。
そんな大事な人の病気を治療したことで、中宗のチャングムに対する信頼は益々厚くなったことと思います。
—中宗17年9月5日
大妃殿の症状が良くなり、薬房に差をつけて賞を与えた。
・・・医女信非(シンビ)、長今には各々米・豆十石を与えた。引用元:Wikipedia「大長今」
大妃の病状が良くなり、治療を担当したチャングムと医女の信非(シンビ)に米十石と豆十石を与えたことを記録しています。
大妃とは中宗の母・貞顕王后 尹氏(チョンヒョンワンフ ユンシ)です。
ドラマでも貞顕王后の病気が悪化するのを気転を効かせてチャングムが助けています。
また、ここにドラマに出てくるチャングムの同期の医女・シンビの名前も出てきています。
遂に、中宗実録に「大長今」の名前が~中宗実録19年12月15日~
チャングムに王様の病を見る全権が与えられたことを知ることができます。
—中宗19年12月15日
但し、医女大長今は医術に於いて其の類ではやや優れる。
故に大内に出入りし、病を看る。このため全遞児を、その長今に授ける。引用元:Wikipedia「大長今」
ここで初めて、大長今と「大」が長今(チャングム)の頭に付いています。
しかも、チャングムは医者としての技術も非常に優れているので、王様の部屋に出入りして病をみていること。
王様の看病の全権がチャングムに与えられたことが記録されています。
そのため、大長今はチャングムが王様の主治医になったことを表しているとも言われています。
一方、大長今の「大」は同姓を区別するために、体の大きい方に「大」を付けて表現したとの説もあります。
いずれにしても、文脈から見て高い位になったことは間違いないでしょう。
チャングムの脚本家は大長今という文字からチャングムは主治医になったと解釈したと述べています。
ドラマでは中宗がミン・ジョンホの「チャングムを医学の道に進ませて欲しい」という願いを聞いて、チャングムに「大長今」の称号を与えて主治医に任命しています。
韓国での「宮廷女官チャングムの誓い」のタイトル「大長今」はまさに、ここからきています。
中宗実録から見ても、主治医かどうかは別として、医者としての技術も優れていて、王様から高く評価されていることは間違いないですね。
次々と功績を上げるチャングム
実録には、次々と功績を上げるチャングムついての記録が登場しています。
このころのチャングムの名は「大長今」として記載されています。
この時代の医女が尊敬の念を持って、語られるのはやはり、中宗が全幅の信頼を寄せていた証拠でしょう。
—中宗28年12年2月11日
医女大長今、戒今(ケグム)に米・豆を各15石、官木綿と正布を各10匹与え・・・—中宗39年1月29日
医員朴世挙(パク・セゴ)、洪沈(ホン・チム)及び内医女大長今、銀非(ウンビ)等に薬事を議せよと下諭し・・・—中宗39年2月9日
医女大長今には米・豆を5石、銀非には米・豆3石・・・引用元:Wikipedia「大長今」
チャングムに米や豆が褒美として与えられたことなどが記録されています。
また、ドラマに出てくる先輩医女の銀非(ウンビ)の名前も見られます。
シンビ同様にウンビも実在していた人がモデルになっている人物ですね。
ちなみに、中宗39年2月9日の朝鮮王朝実録の次の記録
醫女大長今, 賜米、太幷五石; 銀非米、太幷三石
(医女大長今には米・豆を5石、銀非には米・豆3石)
は、ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」のオープニングに流れる曲の背景に表れる朝鮮王朝実録の部分ですよ。
背景にあるは朝鮮王朝実録です。
大長今の文字を探してみて下さい。
病床の王様に付き添うチャングム~中宗実録39年10月25日~
中宗は11月15日になくなりますが、チャングムは最後まで王様のそばに付き添っていました。
チャングムは中宗の病状を医官に伝える重要な役割をしていたようです。
朝、チャングムが内殿から王様の状況を報告しています。
—中宗39年10月25日
この日、医女長今が出て言うに、「昨夜三更に上は寝つかれ、五更に又暫く寝つかれた。また、小便は暫く通じられたが大便は3日間不通であらせられた。」引用元:Wikipedia「大長今」
「昨夜は、一度三更(午後十一時から午前一時の間)に寝付かれ、また五更(午前三時〜五時までの間)に寝付かれた。小便は少しでましたが、大便は3日間でていません。」
チャングムがいっときも王様のそばを離れずに看病をしていたことが分かりますね。
また、王様は便通に問題があったようです。
余の病状はチャングムだけが知っている~中宗実録39年10月26日~
10月26日の記述には、有名な文章の「予の証しは、女医之を知る。」が記載されています。
これは、余の病状は医女(チャングム)だけが知っていると中宗が言ったとされており、チャングムが中宗から絶対的な信頼を得ていた証拠と言われています。
—中宗39年10月26日
予の証しは、女医之を知る。(女医長今の言「去る夜に五苓散を煎じて二回差し上げたところ、三更に寝つかれた。且つ小便は暫く通じたが、大便は相変わらず不通で、今朝始めて蜜釘を用いた。」と云う。)引用元:Wikipedia「大長今」
多くの優秀な男性の医官がいる中で、「医女であるチャングムが一番、自分の病状を知っている」と言わせたことは、チャングムが中宗のそばにピタリと寄り添って看病していたことを示していると思われます。
チャングムの最後の登場~中宗実録39年10月29日~
チャングム(長今)の名前が中宗実録に登場するの最後の部分です。
—中宗39年10月29日
朝、医女長今が自ら出て曰く、「下気は通じ始められ、非常に気分が良いと仰られた。」引用元:Wikipedia「大長今」
チャングムが自ら内殿より出てきて「王様はやっと便もでて、とっても気分が良いとおっしゃってます。」と述べています。
これを最後にチャングムに関する記録はなくなります。
しかし、実際には11月に入ってからも医女が王の病状を報告する記録があります。
それまでの文脈から判断して医女はチャングムと考えられます。
チャングムが最後まで王様に付き添ったことは間違いありません。
13日には王の病気が深刻であること。
その3日後の15日には危篤であることが医女から伝えられます。
そして、王様の中宗は11月15日の深夜に亡くなります。
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実話から考え出されたドラマの最後
本来、王様がなくなると主治医は治せなかった罪で処罰されますが、その記録が中宗実録にはありません。
通常は多くの主治医が流刑を言い渡されたようです。
チャングムが処罰された記録がないことが、ドラマの最後のストーリーのヒントになったと、イ・ビョンフン監督は述べています。
チャングムと中宗の間には「医女と王」以上の関係があったのでは。。。
それが、ドラマでは二人のラブストーリーとなり、死が迫った中宗がチャングムをミン・ジョンホのもとに逃がすという話の設定になったようです。
史実のチャングムは王・中宗からあまりにも大きな信頼と寵愛を受けていたので、王が亡くなった後に、医院に残ることができなかったのかもしれません。
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まとめ
中宗実録に記録されたチャングムの記録はたったの10箇所でした。
この10箇所の史実から、あの名作「宮廷女官チャングムの誓い」が考え出されたとは驚きです。
しかし、一つ一つの記録を丁寧に読むと、ドラマ制作について多くのことが見えてきます。
本記事がチャングムの実話とドラマとの繋がりを考えてみる参考になれば幸いです。
なお、ドラマ制作に関するエピソードは>> をご覧ください。