息子を王にできなかった安順王后。彼女はどんな王妃だったのか?
安順王后の家系図と史実から、人物像、家族関係、そして悲運の生涯を詳しく解説します。
安順王后の家系図
安順王后(アンスンワンフ)は高麗の功臣である韓蘭(ハン・ラン)を始祖とする清州韓氏の出身です。
清州韓氏は朝鮮王朝で多くの学者や官僚を輩出した名門で、現代の韓国でも大きな氏族の一つとして知られています。睿宗の最初の正室・章順王后も清州韓氏の出身で、二人は遠縁にあたります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<安順王后の家系図>
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没年:1499年12月23日(享年55歳)
在位:1468年9月7日-1469年11月29日
氏族:清州韓氏
大妃名:仁恵大妃(イネテビ)
父親:韓伯倫(清川府院君)
母親:豊川任氏(西河府夫人)
埋葬:昌陵(夫・睿宗と合葬)
安順王后の親兄弟
安順王后は4男5女の長女として生まれました。父・韓伯倫は学識豊かで、六代の王に仕えた名臣です。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 韓伯倫 | 1427-1474 | 清川府院君 |
| 母 | 豐川任氏 | 不詳 | 西河府夫人 |
| 弟 | 韓懽 | 不詳 | |
| 弟 | 韓恱 | 不詳 | |
| 弟 | 韓恒 | 不詳 | |
| 弟 | 韓恂 | 不詳 | |
| 妹 | 天安郡夫人 | 不詳 | 李浚の妻 |
| 妹 | 淑夫人 | 不詳 | 南孝元の妻 |
| 妹 | 不詳 | 不詳 | 元菑の妻 |
| 妹 | 貞夫人 | 不詳 | 慎守英の妻(注1) |
(注1)慎守英は中宗の最初の妃・端敬王后の父・慎守勤の弟です。
安順王后の父・韓伯倫
韓伯倫(ハン・パルリュン)は、世宗の時代に文科に合格。以後、世宗・文宗・端宗・世祖・睿宗・成宗の六代に仕えた忠臣でした。
睿宗が即位し、娘が王妃になると清川君に封ぜられ、成宗の時代には右議政まで昇進しています。
安順王后の家族
安順王后は睿宗との間に1男2女をもうけました。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 夫 | 睿宗 | ||
| 長女 | 顕粛公主 | 1464-1502 | 任光載の妻 |
| 長男 | 斉安大君 | 1466-1525 | 王位継承から外される |
| 次女 | 恵順公主 | 1468-1469 | 早世 |
安順王后と王位継承問題
睿宗の長男・仁城大君は早世しており、本来なら斉安大君が王位を継ぐはずでした。しかし幼少を理由に外され、代わって懿敬世子の次男・乽山君(のちの成宗)が第9代王に選ばれます。
後継を定めたのは世祖の王妃・貞熹王后(慈聖大妃)でした。誰を喪の主(後継者)とすべきか問われると、彼女は次のように答えています。
元子方在襁褓、月山君素有病。者山君年雖幼、世祖每稱其器度、至比之太祖、令主喪何如?
<成宗実録:即位年11月28日条(1469年)>
このとき、既に乽山君は宮中に入っており、事前に申叔舟・韓明澮ら重臣との調整や乽山君の母・仁粹大妃の働きかけがあったとみられています。水面下では王位継承をめぐる複雑な思惑が交錯していたのです。
不遇な息子の斉安大君の生涯
こうして、王位継承の座を奪われた斉安大君は、1525年に60歳で生涯を閉じました。その時の実録に彼の生涯について記されています。
王位継承から外れた後は、色事に関心を示すこともなく、音楽や宴を楽しみながら暮らしたと伝えられます。人々の中には、これを「わざと愚かにふるまっているのだ」と評する人もいました。(中宗実録:中宗20年12月14日の条より)
安順王后の生涯
若くして大妃(仁恵大妃)になった安順王后は、その後、義母(貞熹王后)と義姉(仁粋大妃)とともに昌慶宮で暮らしました。
晩年は表舞台に現れることなく、1499年2月3日、享年55歳で亡くなりました。陸墓は昌陵で、夫の睿宗とともに埋葬されています。
| 年 | 出来事 |
| 1445 | 韓伯倫の長女として生まれる |
| 1462 | 揀択により世子嬪に選ばれる |
| 1464 | 長女・顕粛公主を出産 |
| 1466 | 長男・斉安大君を出産 |
| 1468 | 次女・恵順公主を出産 |
| 1468 | 睿宗が即位。王妃に冊封される |
| 1469 | 睿宗が逝去。25歳で王大妃となる |
| 1483 | 昌慶宮で暮らし始める |
| 1499 | 55歳で亡くなる |
まとめ
安順王后は名門の清州韓氏の出自でしたが、若くして夫を失い、政治の思惑に翻弄された生涯でした。そのため、彼女は王大妃となりますが、息子を王にすることはできませんでした。
死後は夫の睿宗とともに昌陵に合葬され、朝鮮王朝史の中で静かに名を残しています。