李芳遠(イ・バンウォン)の腹心であり、策略家の河崙(ハ・リュン)とはどんな人物だったのか?
彼の家系図から名臣の実像、家族、生涯まで分かりやすく解説します。
河崙(ハ・リュン)の家系図
河崙(ハ・リュン)は河拱辰を始祖とする晋州河氏一族の出身です。父の河允潾は順興府使を務めていました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<河崙の家系図>
妻の父の兄(河崙にとって義伯父)の李仁任(イ・イムニ)は、高麗末期に摂政として、朝廷を独占した権力者でした。
李仁任についてはこちら>>李仁任(イ・イムニ)は実在した李成桂の政敵【高麗末期の独裁者】
そのため、李仁任が失脚したときに、親戚と言う理由で一時、流刑になっています。
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河崙は、高麗末から朝鮮初期にかけて活躍した文臣で、朝鮮王朝の第3代王・太宗(李芳遠)の腹心として知られています。
彼は、李芳遠の義父である閔霽(ビン・セイ)と友人であり、閔霽を通じて李芳遠と知り合いました。後に、武臣として活躍する李叔蕃(イ・スクボン)を李芳遠に紹介したのは河崙です。
河崙は、第一次王子の乱、第二次王子の乱で李芳遠を助け、功績を上げます。その後は、李芳遠の知恵袋として活躍、議政府領事(領議政)まで上り詰めています。
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処世術の達人というよりは、力尽くで物事を押し切ろうとする、いわゆる ブルドーザー型の人だったようです。
行政を処理したり、政策を立案したり、政治的な仕事では非常に優れた人物でしたが、物欲が強いことが大きな欠点でした。
河崙(ハ・リュン)
生年:1347年12月22日
没年:1416年11月6日
享年:70歳
氏族:晋州河氏
父:河允潾(ハ・ユンリン)
母:姜氏(晋陽姜氏)、姜承裕の娘
妻:李氏(星州李氏)、李仁美の娘
河崙(ハ・リュン)の家族
河崙(ハ・リュン)は妻・李氏との間に1男2女の子供をもうけました。
<河崙の家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
妻 | 星州李氏 | 不詳 | 辰韓國大夫人、李仁美の娘 |
長男 | 河久 | 1380-1417 | |
長女 | 不詳 | 不詳 | 洪陟の妻 |
次女 | 不詳 | 不詳 | 李承幹の妻 |
河崙(ハ・リュン)の生涯
1347年、河崙は高麗時代に順興府使を務めていた河允潾(ハ・ユンリン)の息子として生まれました。
科拳合格と政界進出
河崙は1360年に監試(成均館の入学試験)、1365年に科挙に合格しています。
このときに、才能を見込まれ名門・李仁美の娘と結婚し、伯父・李仁任の後ろ盾で政界へ進出しました。
罷免や流刑を繰り返した不遇時代
河崙は1369年に監察糾正となるも、辛旽と対立して罷免。辛旽の死後に復職し、官職を歴任しました。
1380年に母を亡くし一時政界を引退しますが、3年間の喪が終わると再び、政界に復帰しています。
李仁任が失脚すると、親族の河崙は流刑となります。復帰できたのは、1392年に朝鮮王朝が建国されてからでした。
1394年、遷都問題で鄭道伝と対立し、彼に恨みを抱くようになります。
王子の乱での功績とその後の昇進
河崙は王子の乱で李芳遠を支援して功績を上げると、順調に昇進していき、最終的には領議政を務めています。
年 | 功績と昇進 |
1398 | 第一次王子の乱で功績を上げる(定社功臣一等) |
1400 | 第二次王子の乱で功績を上げる(佐命功臣一等) |
1401 | 議政府左参賛に任命され実質的な政権運営に関与 |
1408 | 議政府領議政に就任(最高官職) |
太宗の片腕として政治改革を遂行
河崙は太宗の即位後、改革を主導し、六曹直啓制導入や楮貨発行、申聞鼓設置で政治と財政を整備しました。
一時退任しましたが、左政丞(承樞府判事を兼務)に復帰しています。
外交、史料の編纂に活躍
1402年、河崙は明への祝賀使として派遣され、朝鮮王朝の承認を得て対明関係を安定させました。
また、「東国史略」や「太祖実録」などの史料の編纂も主導しています。
河崙の晩年と最後
晩年は病を得て政界を退き、1416年に死去しています。太宗は深く悲しみ、丁重に葬儀を行ったと記録されています。享年70才でした。
河崙が登場するドラマ
河崙(ハ・リュン)は多くのドラマで李芳遠の策士として登場しています。
龍の涙
(1996年、イム・ヒョク)
大王世宗
(2008年、チェ・ジョンウォン)
鄭道伝
(2014年、イ・グァンギ)
六龍が飛ぶ
(2015年、チョ・ヒボン)
太宗イ・バンウォン
(2021年、ナム・ソンジン)
( )内は演じた俳優
まとめ
河崙(ハ・リュン)はイ・バンウォンの片腕として数々の政治改革を実現した腹心でした。
政治に関しては大変素晴らしい仕事をする人物でしたが、物欲が強いことが大きな欠点だったといいます。
しかし、生涯、イ・バンウォンに尽くし、イ・バンウォンの王座奪回に貢献した第一人者であることは間違いありません。