顕宗は激しい党争と前代未聞の大飢饉に悩まさ心労が絶えない王でした。中でも、気が強く気性の荒い王妃・明聖王后との関係は、後世に多くの憶測を呼びました。
この記事では、家系図をもとに王位継承の背景、人物像、家族構成を辿り、彼の苦悩の生涯に迫ります。
顕宗の家系図と複雑な王位継承の背景
顕宗は父・孝宗(鳳林大君)と母・仁宣王后の間に長男として生まれました。母親は徳水張氏一族で右議政を務めた張維の娘でした。
本来なら、昭顕世子の息子が王位を継ぐべきでした、祖父の仁祖は、昭顕世子の急死後、父・鳳林大君を世子として王位に就けました。この複雑な経緯が、後の党争の火種となります。
息子はドラマ「トンイ」で有名な第19代王になる粛宗です。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<顕宗の家系図>
【PR】スポンサーリンク顕宗のプロフィールと人物像
史料には顕宗の具体的な性格に関する記録はほとんど残っていません。しかし、朝廷の激しい党争や、気の強い王妃との関係の中で、多くの気苦労を抱えていた王であったと言われています。
生年:1641年2月4日
没年:1674年8月18日(享年34歳)
在位:1659年6月23日-1674年9月17日
本名:李棩(イ・ヨン)
字:景直(キョンジク)
廟号:顕宗
陵墓:崇陵
側室を持たなかった王
顕宗は側室を持たなかった4人の王の一人です。他の3人の王が短い在位期間だったのに対し、顕宗は15年間も在位しました。
側室を持たなかった理由としては、毎年子どもを授かるなど気の強い妻であったが深く愛していたこと。また、庚辛大飢饉という未曾有の災害の中で側室を迎える余裕がなかったことが理由と考えられます。
顕宗の家族|粛宗とドラマに登場する妹
顕宗は明聖王后との間に1男3女の子供を授かりました。
<顕宗の家族>
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
正室 | 明聖王后 | 1642-1684 | 金佑明の娘 |
長男 | 李焞 | 1661-1720 | 第19代国王・粛宗 |
長女 | 明善公主 | 1660-1673 | |
次女 | 明恵公主 | 1665-1673 | |
三女 | 明安公主 | 1667-1687 | 李温姫、呉泰周の妻 |
妻の明聖王后
明聖王后は義母の仁宣王后が生存中は大人しかったとされますが、義母・仁宣王后、夫・顕宗が続けて亡くなると本来の気性が現れました。息子の粛宗の政務にまで口を出し始めたといいます。
詳しくはこちら>>明聖王后の家系図【気性の荒さで多くの問題を起こした粛宗の母親】
妹はスッキ王女
ドラマ「馬医」に登場するスッキ王女のモデルは顕宗の妹の淑徽公主です。12歳で結婚、20歳で子供を生みますが、翌年、夫を亡くしてしまいます。若くて寡婦になるのは、史実どおりです。
詳しくはこちら>>馬医のスッキ王女(淑徽公主)は死ぬのか?【実在も痘瘡で危篤?】
顕宗の生涯|党争と饑饉に苦しんだ15年
顕宗は、国王として在位した15年間、激しい党争と大飢饉に苦しみました。
国外で生まれた唯一の王
顕宗は、祖父の仁祖が清に降伏した際、人質となった父・孝宗(鳳林大君)の一家が清の瀋陽で暮らしている時に生まれました。朝鮮の王の中で、国外で生まれた唯一の人物です。
即位と二度の礼訟論争
1659年6月23日、孝宗が亡くなると、顕宗が第18代王として即位しました。
顕宗の在位中、祖父・仁祖の継妃・慈懿大妃(1659年逝去)と母・仁宣王后(1674年逝去)の二度にわたり、礼訟論争が勃発しました。名目は喪に服す期間の対立ですが、その実態は政権掌握を巡る激しい派閥闘争でした。
庚辛大飢饉が勃発する
1670年から2年間、冷害や干ばつなどが重なり庚辛大飢饉(キョンシンデギグン)が発生しました。人口約1300万のうち90万人以上が犠牲となる未曾有の大災害でした。
顕宗は救済策を模索しましたが、饑饉の規模の大きさに対処しきれず、民心の動揺を完全に防ぐことはできませんでした。
顕宗の最期
1674年8月18日、二度目の激しい礼訟論争の中、顕宗が亡くなりました。享年34歳。病死でした。実録には次のように記録されています。
上疾大漸, 是夜亥時, 昇遐于昌德宮齋廬
<引用元:顕宗実録1674年8月18日>
顕宗の政治的な成果と後世に残した影響
顕宗は父・孝宗の北伐構想に対し清への服属を受け入れ、対外的な安定を確保しました。しかし内政では激しい党争により政策遂行は制約され、目立った成果は得られませんでした。
この党争は粛宗期にも続きましたが、粛宗は党争を利用。「換局政策」を用いて党派勢力を入れ替え、王権を強化を図っています。
顕宗が登場するドラマ
顕宗が登場したドラマとしては、ハン・サンジンが演じた「馬医」がよく知られています。
チャン・ヒビン(2003年)
馬医(2012年)
チャン・オクチョン(2013年)
まとめ
顕宗は、外敵の侵入に悩まされることはなかったものの、国内では常に激しい党争と、未曾有の大饑饉に悩まされました。
王妃の明聖王后は気が強い女性として知られていますが、彼は側室を持たず王妃を深く愛したと推測されます。
家系図をたどることで、父・孝宗、母・仁宣王后、妻・明聖王后との関係、顕宗の生涯をより深く理解することができます。