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義慈王の家系図【史実で知る最後の百済王と母の謎】

義慈王は百済最後の国王です。母の出自説はどのようにして生まれたのか。義慈王はどのような王だったのか。

この記事では義慈王の家系図から母の謎、人物像、家族関係、そして波乱の生涯を史料をもとに詳しく解説します。

義慈王の家系図

義慈王の母について明確に記述した史料は現在見つかっていませんが、父・武王の王妃に関しては、善花公主説と沙宅氏説が存在します。

義慈王の母は善花公主か沙宅王后か?

善花公主は真平王の娘であり、「三国遺事」の武王条の薯童説話がその根拠となっています。また、沙宅氏説は弥勒寺跡の西塔で改修工事中に発見された舎利奉安記がその根拠になっています。

詳しくはこちら>>善花公主の家系図【百済のソンファ王妃は善徳女王の妹か?】

こうした史料から、武王の王妃及び義慈王の母について有力な説を整理すると次のようになります。

武王の王妃 義慈王の母
善花公主 善花公主
沙宅王后 沙宅王后
善花公主(先妃)/沙宅王后(後妃) 善花公主

善花公主を母とした家系図

現状の史料と発見された遺物を踏まえると、義慈王の母は先妃・善花公主、王の在位後半に登場する沙宅王后は後妃として位置づけられるのが自然と考えます。

ただし、今後の新たな史料の発見によって解釈が変わる可能性も残されています。

義慈王の家系図(母親が善花公主の場合)

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<義慈王の家系図(母親が善花公主の場合)>

もし、義慈王が善花公主の子供であるとすれば、彼女の姉妹・善徳女王は義慈王の叔母にあたり、宿敵・金春秋(武烈王)とも親族関係ということになります。

ドラマ「階伯」では、この系図のように義慈王の母親は新羅の王・真平王の娘として描いています。

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義慈王はどんな王だったのか?

義慈王は、若い頃は品行方正で家臣からも慕われていました。

三国史記には義慈王は親孝行な息子で「海東曽子(ヘドンジュンジャ)」と呼ばれたと書かれています。「海東曽子」とは親孝行で有名な中国春秋時代の人物です。

しかし、新羅との戦いで連戦連勝すると、次第に傲慢な暴君になっていきました。現代では、義慈王は「名君、暴君、平凡な王」など評価が別れています。

義慈王プロフィール

義慈王は建国以来678年、31代続いた百済最後の国王です。武王の長男として生まれ、幼い頃から義理堅く、慈悲深いことから義慈と名付けられました。

百済31代国王
生年:599年
没年:660年(享年62歳)
在位期間:641年-660年
姓:扶余
諱:義慈
父:武王
母:不詳
王后:恩古

百済が滅亡し、王室制度が途絶えたため諡(おくりな)を定める公式な手続きも行われず、義慈王には死後贈られる諡がありません。そのため、生前の名前(諱)が使われ義慈王と呼ばれています。

<豆知識>百済の王族名
百済の王族名は「扶余(プヨ)」です。旧字体では扶餘と書きます。従って、義慈王の名前は「扶余義慈」となります。
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義慈王の家族

義慈王の王子の人数は史料により異なりますが、6人説が最も有力とされています。子供の母親が誰であるか、兄弟の順番など、特に四男以降については正確には分かっていませんが、孝(ヒョ)は恩古の子とされています。

また、晩年、義慈王は酒に溺れ多くの側室を持ちました。その結果、息子だけで40人以上の庶子がいたとされています。

<義慈王の家族一覧>

関係 名前 生年-没年 備考
武王 580-641 百濟第30代王
不詳
翹岐 不詳 異母弟
長男 隆(ユン) 615-682 太子を廃位される
次男 泰(テ) 不詳 最後まで泗沘城を死守
三男 孝(ヒョ) 不詳 太子、母親は恩古
四男 不詳
五男 豐/豐璋 不詳 倭国に人質
六男 勇/善光 不詳-693 倭国に人質、倭国に留まる

義慈王の異母弟の翹岐については、義慈王の王子で日本に人質に出されていた扶余豊璋と同一人物とする学者もいますが、一次史料による直接的な裏付けはありません。

義慈王の妻・恩古(ウンゴ)

恩古(ウンゴ)は「日本書紀」に義慈王の妻として記述されています。そこでは、彼女は王を惑わし、国を私物化して、百済を滅亡させた元凶とされています。

詳しくはこちら>>階伯(ケベク)のウンゴは実在した【悪女説を史料で検証】

義慈王の生涯

義慈王の生涯を「三国史記 百済本紀第六 義慈王」をもとに詳しく解説します。

百済31代国王として即位

義慈王は632年に太子に冊封され、641年、先代の武王が亡くなると百済の第31代国王として即位しました。

即位後の義慈王は、それまでの貴族主導の政治から、王自らが直接統治する体制へと方針を転換します。この改革により、従来強い影響力をもっていた貴族勢力は次第に弱体化していきました。

百済の躍進

642年7月、義慈王は自ら新羅へ出陣し、獼猴をはじめ40余りの城を落としました。続く8月には、将軍允忠が1万の軍で大耶城を攻略。降伏した城主・品釈とその妻子を斬首します。

このときの城主の妻は金春秋の娘・古陀炤公主で、これを知った金春秋の怒りは激しく、後に唐との連合で百済を滅ぼす原動力となりました。

勝利から慢心へ|義慈王政権の転落

644年から649年頃まで百済と新羅は激戦を重ね、651年には唐の高宗が和睦を勧める詔書を送りますが、義慈王は応じませんでした。655年には高句麗と連携して新羅の30城を奪うなど勢力を広げます。

しかし勝利に慢心した義慈王は酒色に溺れて政治を顧みず、諫めた佐平・成忠(ソンチュン)を投獄したため、ついには王を諫める者すらいなくなったと伝えられています。

百済の滅亡と義慈王の最後

660年、唐・新羅連合軍が百済へ侵攻しました。唐の蘇定方は13万の大軍を率いて海路から進み、新羅の武烈王・金庾信の5万の軍と合流します。想定外の大軍に義慈王は動揺し、黄山伐で階伯が敗れると百済軍は総崩れとなりました。

泗沘城包囲後に王子を退避させたものの城は陥落。義慈王も7月18日に降伏して百済は滅亡します。義慈王、王子、大臣らは唐へ連行され、義慈王は後に長安で病死したと伝えられます。

まとめ

三国統一を目指して、新羅と激しい戦闘を繰り返した義慈王でしたが、勝利に慢心して、最後は、唐と新羅の連合軍に滅ぼされてしまいます。

母親の出自や兄弟関係には多くの疑問が残る王ですが、歴史には多くの足跡を残した王でした。

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