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階伯(ケベク)の‎ウンゴは実在した性悪女(しょうわるおんな)

ドラマ「階伯(ケベク)」の‎ウンゴ(恩古)は実在した王妃でした。

‎ウンゴの悪女ぶりは歴史史料に記録されています。

 

日本書紀に記されたウンゴの性悪ぶり

恩古(ウンゴ)の名前が歴史の史料に出てくるのは「日本書紀」のみです。

日本書紀の斉明天皇6年10月条には「その妻恩古」と記載されています。

百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國<引用元:日本書紀 斉明天皇6年10月条>

百済王の義慈、その妻の恩古、その子の隆たち、その家臣の佐平千福、国弁成、孫登らおよそ50余人は、7月13日の秋に蘇将軍に捉えられ、唐国へ送られた

この文から、百済王の義慈の妻の名前が「恩古」であることが分かります。

なお、ウンゴは「恩古」の韓国語読みです。

 

また、日本書紀の斉明天皇6年7月条を読むと、恩古が百済を滅ぼした元凶のように書かれています。

或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪國柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟<引用元:日本書紀 斉明天皇6年7月条>

あるいは、百済は自ら滅びたと言えるかもしれない。思うがままに国の権力を乱用し、善良で徳のある者たちを殺した大公妃の邪悪さが、このような禍を招いたのだ。慎むべきことだ。

先にご紹介した「恩古」の名前が見られる文が斉明天皇6年10月、この文がその前の7月の日付です。

従って、大公妃は恩古のことを示していると考えられます。

 

恩古が国を私物化して、善良で徳のある者たちを殺したと記録しているのです。

まさに、恩古はドラマ以上に性悪女であったと思われます。

 

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碑銘に記載された性悪ぶり

660年、百済は唐と新羅の連合軍によって滅ぼされます。

その時に、百済に攻め込んだ唐の将軍・蘇定方が百済に大勝利したことを記念して定林寺(チョンニムサ)の五重石塔に文字を刻んでいます。

<定林寺の五重石塔>

その碑は、唐が百済を平定したことを記念する戦勝碑という意味で「大唐平百済国碑銘」と称されています。

この碑文の中に、「外棄直臣、内信祅婦」という文があります。

「高潔な臣下を追放し、身内の妖婦を信じた」

 

妖婦(ようふ)とは男性を惑わす美しい女性のこと、義慈王の妻、恩古を示していると考えられます。

つまり、義慈王は信頼できる臣下を追放して、妻の恩古に惑わされたという意味です。

 

蘇定方がわざわざ戦勝碑に記載したと言うことは、少なからず百済の敗北の一因であったことを示しています。

このように、恩古は王を惑わし、国を私物化して、百済を滅亡させた元凶として歴史上記録されています。

 

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ウンゴの最後

義慈王は唐に連行された4ヶ月後に病死、呉の最後の皇帝・孫皓と陳の最後の皇帝・陳叔宝の側に葬られました。

いずれも、滅亡国の典型な暗君です。

 

しかし、義慈王と一緒に唐に連行されたウンゴの消息は歴史史料にはありません。

現状、ウンゴの最後は不明です。

 

まとめ

ドラマ「階伯(ケベク)」の‎ウンゴ(恩古)は実在した王妃で、百済を滅亡させた性悪女であると紹介してきました。

しかし、一方では史料は信憑性が低いこと、また、「大夫人」は義慈王が寵愛した別の女性を示すなど異なる説もあります。

 

階伯の脚本家であるチョン・ヒョンス氏も史料は新羅の目線で書かれており、信憑性は低いと語っています。

従って、ドラマのウンゴは悪女として描かなかったようです。

そのため、一時は百済を売国し、新羅に逃げ込んだにも関わらず、改心して戻ってきたストーリー展開にしたと思われます。

 

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