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階伯(ケベク)の実話【ドラマの史実を徹底調査】

ドラマ「階伯」はどこまでが史実なのか?

階伯(ケベク)の実話を徹底調査しました。

 

階伯(ケベク)の実話

ケベクの実話について、史実で伝えられる出来事を年代順にご紹介します。

 

ケベクの出生は謎

ケベクは613年に生まれたと言われていますが、その出生は全く分かっていません。

朝鮮後期に金正浩(キム・ジョンホ)が書いた「大東地誌」にケベクのことが少し書かれています。

それによると、階伯の実の名前は承(スン)で苗字は百済王室と同姓の扶余です。

つまり、ケベクの本名は扶余承(プヨ・スン)で王族だった可能性があります。

<豆知識>大東地誌とは
大東地誌とは地理のことを書いた地理書ですが、正史には書くことのできなかった特定の地域に関する説明や人物、出来事なども書かれています。

 

西谷城の戦い

633年、百済の武王が西谷城(ソゴクソン)に兵を派遣して13日で陥落させた記録が「三国史記」にあります。

しかし、指揮した武将の名前は記録されておらず、ケベクの関与は不明です。

三十四年秋八月。遣將攻新羅西谷城。十三日拔之。
<引用元:「三国史記」27 百済本紀 武王より抜粋>

633年8月、新羅の西谷城を攻めるために軍を派遣する。13日でこの城を攻め落とす。

 

<豆知識>三国史記とは
三国史記は新羅、高句麗、百済の三国の歴史を記録した韓国最古の歴史書で国宝に指定されています。新羅寄りの記述が多いとも言われていますが、公式の歴史記録は基本的にこの「三国史記」の記述を主としています。

 

義慈王の即位と沙宅一族の粛清

641年、武王が亡くなり、義慈が第31代王として即位しました。

すると、翌年に異母弟の翹岐(キョギ)とその母親、そして内佐平の岐味(キミ)の他、貴族40名を島流しとしています。

これは、三国史記ではなく、日本書紀に記載されています。

今年正月、國主母薨。又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、内佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。
<引用元:日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀より抜粋>

642年正月、義慈王の母が亡くなった、弟の王子・翹岐とその母、妹4人、内佐平の岐味、貴族(沙宅一族)40名を島流しとした。

 

新羅への侵攻

義慈王は即位すると、翌年の642年には高句麗の淵蓋蘇文と同盟を結び、新羅への侵攻を開始しました。

同年7月には、義慈王が自ら大軍を動員して新羅に侵攻して、獼猴など国境近くの40余城を攻略しています。

 

大耶城の陥落と金春秋の娘の殺害

642年8月、将軍の允忠(ユンチュン)に兵1万を率いて大耶城(テヤソン)を陥落させました。

このとき降伏してきた大耶城の城主・品釈(プムソク)とその妻・古陀炤(コタソ)は殺害されてしまいます。

娘の死を知った金春秋の怒りと落胆は計り知れないものがありました。

 

党項城の攻防

漢江流域は朝鮮から中国(隋や唐)に行く、最短交通路の玄関口として非常に重要な地域でした。

475年に高句麗が百済からこの地を奪い、党項城(タンハンソン)を建ててから、高句麗、百済、新羅の三国はこの城を巡って、約170年にも渡り攻防を繰り広げています。

 

義慈王の暴君化

654年、真徳女王が亡くなり、金春秋が新羅の第29代の王(武烈王)として即位しました。

しかし、百済の勢いは止まらず、655年には百済と高句麗の連合軍が新羅の30城を奪っています。

この頃から連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、政務を放棄、暴君化していきました。

656年、義慈王は政敵を排除、庶子41名を佐平として任命し領地まで与えています。

 

黄山伐(ファンサンボル)の戦い

660年、新羅の要請に応え唐が百済への侵攻を決定しまいた。

唐は蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合して攻撃を仕掛けました。

ケベクは百済の都・泗泚への最後の防御地点となった黄山伐で迎え撃ちました。

この時とったケベクの行動がケベクを伝説の武将として名を残すことになりました。

以一國之人,當唐、羅之大兵,國之存亡,未可知也。恐吾妻孥,沒為奴婢,與其生辱,不如死快。
<引用元:三国史記 巻47 伝記第六 階伯より抜粋>

一国の人として、唐と新羅の大軍に立ち向かわなければならず、国の存亡はどうなるか分からない。私は妻子が奴婢になることを恐れている。生き恥をさらすよりは、快く死んだほうがましだ。

 

真偽は定かではありませんが、ケベクは出陣する前に妻子を自分の手で斬り殺したと言われています。

ケベクは金庾信の5万の大軍に5千の兵で立ち向かい、4度の戦いに勝利しますが、最後は力尽き破れてしまいます。

660年7月9日、ケベク戦死

 

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ドラマと史実の違い

ドラマ「ケベク」は史実をベースにフィクションを織り交ぜた物語です。

ここでは、ドラマ「ケベク」について、史実とドラマの違いを検証していきます。

 

若い頃のケベク

ケベクは613年に生まれたと言われていますが、その出生は全く分かっていません。

従って、ケベクの若い頃の話は全てフィクションです。

 

娘臂城の戦い

629年8月、新羅の金庾信が副将軍として戦に参加して初めて戦功を上げた記念すべき戦いです。

ドラマでは第8話で、捕虜のケベクが参加して、戦法を考案、戦功を上げましたが、これはもちろんフィクションです。

 

西谷城の戦い

633年、百済の武王が西谷城(ソゴクソン)に兵を派遣して13日で陥落させた記録が「三国史記」にあります。

ドラマでは第21話で、ケベクが鈴の音で新羅軍を撹乱させて陥落させますが、指揮した武将の名前は記録されておらず、ケベクの関与は不明です。

 

大耶城の陥落と金春秋の娘の殺害

大耶城(テヤソン)を陥落させた百済が、降伏してきた城主を妻子ともども斬首したのは史実です。

この史実は、ドラマ27話で描かれていますが、義慈王が城主と妻を自ら殺したのはフィクションです。

 

党項城の攻防

ドラマではケベクが党項城の攻略を目指しますが、史実にケベクの名前はありません。

ドラマの25話から27話に渡る金春秋との駆け引きは、党項城を巡る史実をたくみにアレンジしています。

 

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ドラマ「階伯」のその後

ドラマはケベクが黄山伐の戦いで戦死したところで終わります。

そこで、実話のその後をご紹介します。

 

百済の滅亡

黄山伐の戦いで百済軍が敗れると、形勢は一挙に逆転、唐・新羅の連合軍は泗沘城を陥落させました。

義慈王も捕らえられ、遂に百済は滅亡します。

勝利した唐の蘇定方は義慈王、太子孝、王子泰、隆、演、大臣、将軍88名と百姓12807人を人質として唐に連行しています。

このことは、蘇定方が戦勝を記念して定林寺の五重石塔に刻んだ「大唐平百済国碑銘」に残されています。

 

百済再興の希望が消えた白村江の戦い

百済が滅亡してからも、残勢力による百済復興活動が続いていました。

軍事支援を要請された倭国(日本)は27000人の軍隊を朝鮮に派遣しました。

663年10月、白村江で百済・倭国の連合軍と唐・新羅の連合軍が激突、百済・倭国の連合軍が惨敗して、百済再興の希望は完全に消えました。

 

実在した登場人物

ドラマ「階伯」には、多くの実在した人物が登場しています。

役名 実在のモデル 備考
ケベク 階伯 百済の将軍
ウィジャ 義慈王 百済第31代王
ウンゴ 恩古 義慈王の妃
武王 武王 百済第30代王
ソンファ妃 善花王妃 武王の妃
サテク妃 沙宅妃 武王の妃
キョギ 翹岐 武王と沙宅妃の息子
ソンチュン 成忠 義慈王の忠臣
フンス 興首 義慈王の忠臣
サテク・チョクトク 沙宅積徳 佐平、沙宅妃の父
ユンチュン 允忠 百済の将軍
ヨン・ムンジン 燕文進 百済の杵率
ワン・ヒョリン 王孝隣 百済の佐平
キミ 岐味 百済の内臣佐平
イムジャ 任子 百済の佐平
サテク・チジョク 砂宅智積 百済の大佐平
キム・チュンチュ 金春秋 新羅の第29代武烈王
キム・ユシン 金庾信 新羅の将軍
キム・ソヒョン 金舒玄 金庾信の父
キム・フムスン 金欽純 金庾信の弟
コタソ 古陀炤 金春秋の娘
キム・プムソク 金品釈 古陀炤の夫
アルチョン 閼川 新羅の重臣(花郎)
ピルタン 弼呑 新羅の重臣(花郎)
ヨン・ゲソムン 淵蓋蘇文 高句麗の将軍

 

まとめ

ケベクの史実を調べると、ドラマは実話をベースにフィクションを巧みに織り交ぜた物語であることが分かりました。

ケベクは百済の存亡をかけて、最後まで戦った将軍として後世に英雄として語り継がれています。

 

しかし、ドラマは視聴者を引き付けるために創作が加えられ、史実とは異なるエピソードも少なくありません。

ドラマと史実の違いを知ることで、百済やケベクの実像がより鮮明になり、歴史の理解が深まると考えます。

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