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貞純王后の家系図【悪女説は本当だったのか?史料で検証】

貞純王后は、朝鮮王朝後期を代表する王妃の一人でありながら、「悪女」と評価されることの多い人物です。ドラマ「イ・サン」でも正祖と敵対する女傑として描かれています。では、彼女は本当に悪女だったのでしょうか。

この記事では、家系図を手がかりに、史料に基づいて貞純王后の実像と「悪女」と呼ばれた理由を検証します。

貞純王后の家系図

貞純王后の一族である慶州金氏は、族譜『慶州金氏世譜』において新羅の始祖・金閼智を遠祖とし、新羅最後の王・敬順王の第四子大安君の後裔と伝えられています。

貞純王后は慶州金氏の五つの主要な派のうち、金仁琯を派祖とする太師公派の出自とされています。金仁琯は高麗の睿宗期に検校太子太師を務めた人物でした。

貞純王后の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<貞純王后の家系図>

貞純王后が王妃に選ばれた当時、慶州金氏は名門の一族ではありましたが、朝廷政治の中枢を担う有力家門ではありませんでした。しかし、王統を先祖に持ち、金仁琯以降の系譜が明確であったことは、王妃選定において評価された要素の一つであったとみられます。

また、特定の政治勢力と強く結びついていない家門であったことは、王権の安定化にとって好ましい婚姻相手であったとも考えられます。

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貞純王后の人物像

1757年、先の王妃・貞聖王后が亡くなると、その2年後、貞純王后は15歳の若さで王妃となりました。このとき、英祖は66歳で孫のような妻を迎えたことになります。

英祖の息子・荘献世子は26歳、恵慶宮26歳、正祖は8歳でした。荘献世子にとって、義理の母親が10歳近くも若いことになります。

入宮する以前の貞純王后に関する情報は確認できません。

<貞純王后のプロフィール>
出生:1745年11月10日
死去:1805年1月12日(享年61歳)
父:金漢耈(1723-1769)
母:原豊府夫人(1722-1769)
兄:金亀柱(1740-1786)
弟:金麟柱(生没年不詳)

実録が伝える貞純王后の別の姿

『純祖実録』の純祖5年1月23日には、貞純王后逝去時に王が彼女を称えた言葉が記録されています。それによると、貞純王后は生前、民を思いやり無駄な出費を避け、さらに自身の葬礼費用まであらかじめ準備していたとされます。

また、諡号を「貞純」とした理由が実録に記録されています。

議定大行大王大妃殿諡號, 曰, ‘貞 【大慮克就。】 純’【中正精辨。】
<純祖実録:純祖5年1月18日条>

<訳>大行大王大妃殿の諡号について協議した結果、(貞純と定められた)「貞」は深い思慮をもって物事を成し遂げたこと、「純」は公正で、物事を的確に判断したことを示す。

ここでいう「物事」とは、国家安定を意味すると考えられます。

このように実録の評価においては、貞純王后は質素倹約を重んじ、私情に左右されない公平な人物で国家安定に尽くしたと評価されています。

では、なぜ貞純王后は後世、悪女と評されるのでしょうか。

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貞純王后が悪女と言われる理由

貞純王后が「悪女」と評される最大の理由は、正祖の死後、幼い純祖に代わって垂簾聴政を行い、正祖が推進していた政治改革の多くを停止または修正したことにあります。

彼女の政権下では、正祖期に登用された官僚や改革派が排除され、政治路線は改革から保守へと大きく転換しました。この政策変更は後世において朝鮮後期の政治停滞と結び付けて理解され、厳しい評価を生む要因となりました。

しかし、王朝衰退は複合的要因によるものであり、近年、正祖の治世を理想化する歴史観が広まる中で、その改革を否定した政治勢力への批判が強まり、貞純王后の「悪女」像が形づくられていったと考えられます。

貞純王后の生涯

英祖の王妃に選ばれる

1759年6月9日、揀択により貞純王后が王妃に選ばれました。

行三揀擇、定於幼學金漢耉女
<英祖実録:英祖35年6月9日条>

<訳>三度目の揀択(王妃選び)を行い、幼学・金漢耉の娘に決定した。

このとき、貞純王后はまだ15歳の少女で、『英祖実録』をはじめとする史料には、彼女が政治に関与した記録は確認できません。

また、1762年、荘献世子(思悼世子)が米びつ事件で亡くなったとき、貞純王后は18歳でしたが、この事件への直接的関与を示す史料は存在していません。

正祖との関係と対立の実像

貞純王后はドラマに於いて、しばしば正祖と対立した人物として描かれますが、史料上、正祖と貞純王后の間に個人的対立を示す記録は確認できません。正祖期における本質的な争いは王と王大妃の感情的対立ではなく、老論派と南人派など党派間の政治的主導権争いでした。

正祖死後の垂簾聴政

1800年、正祖が急逝すると幼い純祖が即位し、貞純王后は王大妃として垂簾聴政を開始しました。ここで貞純王后は、垂簾聴政を通じて初めて政治の中枢に登場することになります。

1801年の辛酉迫害は貞純王后期を象徴する事件として知られます。この事件は貞純王后の勅令によって始まった天主教弾圧です。しかし、貞純王后個人の残虐性を示すものではなく、正祖期に勢力を伸ばした南人系官僚や知識人の排除と結びついた政治的要因が大きいと考えられています。

この弾圧により300人以上のカトリック信徒が処刑され、正祖が育成した多くの政治・学問の人材が処罰されました。

貞純王后の最期

貞純王后が中心の政治も長くは続きませんでした。1803年、純祖の義父・金祖淳が貞純王后の垂簾聴政を辞めさせることに成功すると、朝廷に対する貞純王后の影響力は急激に弱まっていきました。

貞純王后は、1805年1月10日に体調不良となり、2日後の12日に突然亡くなっています。享年61歳でした。病名は記録されていません。

午時, 大王大妃, 昇遐于景福殿。
<純祖実録:純祖5年1月12日条>

<訳>午の刻に、大王大妃が景福殿において崩御された。

貞純王后のお墓

貞純王后の陵墓は、多くの王陵が集まる東九陵(トングルン)にある元陵(ウォンルン)です。

東九陵にある元陵の画像<東九陵にある元陵>

元陵は一つの丘に王と王妃の陵がある双陵形式で、英祖とともにここに眠っています。

英祖の最初の王妃である貞聖王后は、西五陵の弘陵に葬られました。英祖は隣に埋葬されるつもりでしたが、元陵に葬られたため、弘陵は現在も王妃のみの陵となり、隣の区画は空いたままになっています。

まとめ

史料上の貞純王后は質素倹約を重んじ、私情に左右されない公平な人物として、国家の安定維持に尽くしたと評価されています。貞純王后個人の残虐性や私怨による政治的行動を示す記録は確認できず、後世の評価と史実との間には大きな隔たりが存在します。

近年の悪女像は、正祖の時代を理想視する歴史観が広まる中で、その改革路線と対立した政治勢力への批判が強まった結果、象徴的存在とみなされた貞純王后に形成されたイメージであると考えられます。

従って、貞純王后とは「悪女」ではなく、激しい党争の時代を生きた政治的象徴として理解することが、史料に最も近い姿と言えます。

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