インス大妃は高い知識と知略で大妃の座を獲得し、「朝鮮王朝最高の女傑」と称えられた女性です。
この記事では、インス大妃の家系図と家族関係を中心に、女傑と呼ばれる理由やその波乱の生涯を詳しく解説します。
インス大妃の家系図
インス大妃の出自である清州韓氏は高麗の大功臣である韓蘭(ハン・ラン)を始祖とする韓氏を代表する名門一族です。朝鮮王朝でも多くの高官、文人、学者を輩出し、王室や明との深い縁を築きました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<インス大妃の家系図>
明と王室との密接な関係
父・韓確は明との外交を担当していた外交官で、二人の姉妹を皇帝の側室にするなど明国と密接な関係構築に尽力しました。明からの信頼も厚かったとされます。
妹:宣徳帝の側室(1410–1484)
さらに、次女を世宗の庶子・桂陽君に嫁がせ、朝鮮王室とも姻戚関係を結びました。※庶子:側室の子
朝廷との関係
インス大妃の父・韓確は世宗、世祖から信頼された高官であり、世祖のときには左議政まで務めました。インス大妃が世祖の息子・桃源君と結婚したのは韓確の意向が大きかったとされています。
また、従兄の韓致亨(ハン・チヒョン)は、世祖から燕山君の代に渡り高官を務めた人物で最終的には領議政まで昇進しています。インス大妃は次男の乽山君(成宗)を当時、領議政の韓明澮の次女と結婚させ、外戚関係を通じて朝廷内の影響力を強化しました。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<韓明澮を外戚とした朝廷との関係>
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インス大妃は朝鮮史上、稀有の女傑、もしくは鉄の女として知られています。
生年:1437年9月8日
没年:1504年4月27日(享年68歳)
配偶者:懿敬世子(桃源君)
本貫:清州韓氏
父親:韓確
母親:南陽洪氏
陵墓:敬陵(京畿道)
なぜ、インス大妃が「女傑」と呼ばれるのか?
インス大妃が「女傑」あるいは「鉄の女」と称されたのは、宮中を掌握し、政治に果敢に関与したその手腕によるもので、具体的には次の三点に集約されます。
・人事や政務に介入する卓越した政治力
・深い学識で王室女性の教育を主導
宗教的事案、宮中行事への強い関与
「成宗実録8年3月7日条(1477年)」によれば、インス大妃は写経行為を批判された際、王(成宗)に毅然と反論し、自らの信念を貫きました。成宗は母の行為を擁護し、これ以上非難しないように命じています。
この中で、インス大妃は王や大臣に対して強い論理と厳しい口調で反論しており、後世に「女傑」「鉄の女」と評される一つの例と言えます。
人事や政務に介入する卓越した政治力
成宗の即位後、宮中の問題だけでなく、長期にわたり宮廷の人事・政策に関与しました。こうした記録は表ににでることはありませんが、背後で政治的影響力を行使し人事・政務に介入したとされます。
深い学識で王室女性の教育を主導
インス大妃は儒教的女性教本「內訓(ネフン)」を編纂したことでも知られています。これはその後の王室女性教育に大きな影響を与えました。
ソウル大学イ・ギョンハ教授は、論文「15世紀最高の女性知識人(2006年)」で、彼女の知的水準が当時の女性としては非常に高く、「儒教と仏教双方を理解した知的指導者」と評しています。
インス大妃の両親と兄弟姉妹
インス大妃は韓確と南陽府夫人のあいだに生まれた3男6女の末娘です。
次女は世宗と慎嬪金氏の庶子・桂陽君と結婚しましたが、桂陽君は謙虚な性格で権勢を振るわず酒に溺れて38歳で亡くなっています。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 韓確 | 1400-1456 | 左議政 |
| 母 | 南陽府夫人 | 1403–1450 | 南陽洪氏 |
| 長男 | 韓致仁 | 1421–1477 | 判敦寧府事 |
| 次男 | 韓致義 | 1440–1473 | 兵曹判書 |
| 三男 | 韓致禮 | 1441–1499 | 領敦寧府事 |
| 長女 | 不詳 | 1423–不詳 | |
| 次女 | 旌善郡夫人 | 1426-1480 | 桂陽君の妻 |
| 三女 | 不詳 | 1427-不詳 | |
| 四女 | 不詳 | 1431-不詳 | |
| 五女 | 不詳 | 1434-1481 | |
| 六女 | インス大妃 | 1437–1504 | 昭恵王后 |
インス大妃の家族
インス大妃は桃源君(懿敬世子)との間に2男1女の子どもをもうけました。次男の乽山君(チャルサングン)は第9代王・成宗です。
桃源君は32歳の若さで病死しており、王位に就くことはありませんでした。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 夫 | 桃源君/懿敬世子 | 1438-1457 | 徳宗に追尊 |
| 長男 | 月山大君 | 1454-1488 | 妻:昇平府大夫人 |
| 次男 | 乽山君 | 1457-1495 | 第9代王・成宗 |
| 長女 | 明淑公主 | 1455-1482 | 洪常の妻 |
インス大妃の生涯
晩年は孫の燕山君との対立を深め、権力の座を追われました。その人生はまさに栄光と悲劇の連続でした。
| 年代 | 出来事 |
| 1437 | 韓確の末娘として生まれる |
| 1450 | 世祖の息子・桃源君と結婚する |
| 1455 | 首陽大君が即位(世祖)、夫が王世子に冊封され世子嬪になる |
| 1456 | 父の韓確が亡くなる |
| 1457 | 次男・乽山君が生まれる。夫・懿敬世子が病死 |
| 貞嬪(後に粋嬪)という名前を受け、宮廷を離れて生活する | |
| 1468 | 世祖が逝去。睿宗が第8代王として即位 |
| 1469 | 睿宗が逝去。成宗が第9代王として即位 |
| 1471 | 昭恵王后と追尊される |
| 1475 | 仁粋大妃となり権力を掌握 |
| 1482 | 廃妃尹氏を廃位に追い込む |
| 1483 | 義母・貞熹王后が亡くなる |
| 1494 | 成宗が逝去。燕山君が即位。大王大妃となる |
| 1504 | 甲子士禍。燕山君から虐待され68歳で逝去 |
インス大妃が登場する主なドラマ
インス大妃の波乱の生涯は多くの歴史ドラマで描かれています。
彼女の生涯をたどるのであれば、主要な人物が登場し代表的な出来事を見ることができる「インス大妃」がおすすめです。
(1998年、チェ・シラ)
王と私
(2007年、チョン・インファ)
インス大妃
(2011年、ハム・ウンジョン/チェ・シラ)
まとめ
インス大妃は、明や王室と深く結びつく清州韓氏の名門に生まれました。若くして夫の世子を失うという不運に見舞われながらも、卓越した知識と知略で大妃の座に上りつめます。やがて朝廷を動かし、王母として時代を導いたその姿は、まさに「朝鮮最高の女傑」と評されます。
しかし、廃妃尹氏との対立が引き金となる朝鮮大粛清により、その生涯は波乱のうちに幕を閉じました。それでもなお、読み書きできる女性が稀だった時代に、インス大妃は知識と知略で運命を切り開いた朝鮮唯一の女性として、今も鮮烈な印象を放っています。