韓国時代劇で最も頻繁に題材となるのが朝鮮王朝時代です。
この記事では、500年以上続いた朝鮮王朝はなぜ、終わったのか。その理由と最後の王族の姿まで分かりやすく解説します。
朝鮮王朝が滅亡した3つの理由
朝鮮王朝が滅亡した理由には、「内部腐敗」「農民反乱」「列強国の外圧」という次の3つの要因が重なっていました。
1.王権の弱体化と朝廷の腐敗
2.封建制度の崩壊と農民反乱の多発
3.列強国の外圧と時代遅れの国防
王権の弱体化と朝廷の腐敗
正祖までは王が権力を保っていましたが、純祖以降は幼少の王や後継不在を理由に外戚が実権を握り、安東金氏や驪興閔氏らが専横(勢道政治)。官職売買や重税が横行し、農民は困窮、朝廷は内部から腐敗していきました。
封建制度の崩壊と農民反乱の多発
農民は土地を耕し税を納めて暮らしていましたが、官僚の贅沢により不当な重税が課され、架空の耕地や乳児にまで徴収が行われました。
その結果、多くが土地を失い流民となり、各地で反乱が頻発しました。特に三大民乱と呼ばれる以下の蜂起は王朝を大きく揺さぶりました。
1811年 洪景来の乱
1862年 晋州民乱
1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)
列強国の外圧と時代遅れの国防
世界が開国と貿易に進むなか、朝鮮は鎖国を続けました。アメリカ、中国、日本、ロシアが進出を狙う中、朝廷は強固に鎖国施策を続けますが、竹槍で鉄砲に挑むような時代遅れの防衛力にすぎませんでした。
【PR】スポンサーリンク朝鮮王朝滅亡に至る外交過程
518年続いた朝鮮王朝は、列強の思惑の狭間で外交的に追い詰められていきました。ここでは滅亡に至るまでの「外交の転回点」を追い、1894年の農民反乱から1910年のまでの韓国併合までの流れを示します。
年代 | 主要な出来事 | 外交上の意味 |
1894–95 | 甲午農民戦争→日清戦争(日本勝利) | 清の撤退、朝鮮は対露依存を強める |
1896–97 | 露館播遷/国号を大韓帝国に改称 | 親露政策と王権強化の試み(対日対抗) |
1904–05 | 日露戦争(日本勝利) | 露の撤退、日本が主導権を確立 |
1905 | 桂・タフト了解/第2回日英同盟/ポーツマス講和 | 米英が日本の朝鮮支配を事実上容認 |
1905 | 乙巳条約 | 外交権剥奪=保護国化の確定 |
1907–10 | ハーグ密使失敗・高宗譲位→韓国併合 | 世界からの孤立→併合、朝鮮王朝滅亡 |
露館播遷(ろかんはせん):高宗がロシア公使館に逃げ込んだ事件
親露政策:ロシアに頼った政策
保護国化:外交権や軍事権などの重要な主権を握られること
朝鮮王朝最後の王・純宗
朝鮮王朝最後の王は第27代純宗で、高宗と明成皇后の長男として生まれました。二度の結婚をしましたが子はなく、1907年に即位した時にはすでに日本の支配下でした。1910年の併合で皇帝から「李王」となり、昌徳宮で余生を送り、1926年に53歳で逝去しました。
518年間書き続けられた朝鮮王朝実録の最後記録は、次のような純宗の言葉で締めくくられています。
韓国の統治権を従来より親しく信頼し依拠してきた隣国、大日本皇帝陛下に譲り渡す。~(略)~私の今日のこの措置は、あなたたち民衆を忘れたためではない。まことにあなたたちを救済しようとする至極の思いから出たものである。あなたたち臣民は私のこの心をよく理解してほしい。
<純宗実録1910年8月29日抜粋>
純宗について詳しくはこちら>>純宗の家系図【可哀想なほど無力だった朝鮮王朝最後の王】
王族の末路
高宗には、幼くして亡くなった子供も含めて、多くの子供がいましたが、成人まで成長したのは純宗、英親王、義親王、徳恵翁主の3男1女のみでした。
<高宗の子供たち>
名前 | 生年-没年 | 母親 | 備考 |
完親王(李墡) | 1868-1880 | 永保堂 貴人李氏 |
13歳で逝去 |
翁主 | 1871-不詳 | 早世 | |
大君 | 1871-1871 | 明成皇后 | 早世 |
公主 | 1873-1873 | 早世 | |
純宗(李坧) | 1874-1926 | 第2代皇帝 | |
義親王(李堈) | 1877-1955 | 貴人張氏 | 非行、悪行 |
英親王(李垠) | 1897-1970 | 純献皇貴妃 | 最後の皇太子 |
皇子(李堣) | 1915-1916 | 宝賢堂 貴人鄭氏 |
早世 |
徳恵翁主 | 1912-1989 | 福寧堂 貴人梁氏 |
名は李德惠 |
皇子(李堉) | 1914-1916 | 光華堂 貴人李氏 |
早世 |
皇女(李文鎔) | 1900-1987 | 宮女廉氏 |
日本の植民地となった朝鮮王朝の王族たちは、その後数奇な運命をたどりました。
その中でも代表的な3人の王族についてご紹介します。
皇位継承から外された義親王
側室の息子であった義親王は、なかなか祖父の興宣大院君の反対で王子として認められませんでした。そのためか、少年の頃から素行が悪く、生活は荒れていました。
青年になってからも日本やアメリカを渡り歩き、頻繁に問題を起こしています。そのため、英親王(李垠)より20歳も年上にもかかわらず皇位継承から外されました。
最後の皇太子・英親王
義親王の素行不良から後継は英親王(李垠)に決まりました。1907年、純宗が即位すると英親王は皇太子に冊立されています。彼は12歳で日本に渡り軍人となり、皇族の梨本宮方子と結婚します。
しかし、戦後は一般平民に降格、生活は困窮しました。1959年、脳血栓で倒れた後、1963年に韓国へ帰国し、1970年にソウルで亡くなっています。
夫に尽くした皇族方子について詳しくはこちら>>梨本宮方子の家系図【朝鮮王朝最後の皇太子の妃】
悲劇的な運命だった徳恵翁主
高宗の末娘・徳恵翁主は日本へ留学後、宗武志と結婚させられましたが破綻し、娘を失い精神障害を患います。1950年、松沢病院に入院中に発見され帰国運動が起こり、1962年に韓国へ戻りました。
1989年に没した徳恵翁主の悲劇的な生涯は、映画『ラスト・プリンセス』で描かれています。ただし、この作品は史実の複雑さや痛ましさを簡略化し、彼女を民族的ヒロインとして美化しているとして、歴史美化の議論を呼んでいます。
まとめ
朝鮮王朝滅亡の理由は「内部腐敗」「農民反乱」「列強の圧力」が重なった結果でした。500年以上の繁栄を誇った王朝も外戚による専横と国際情勢に翻弄され、最終的に日本の植民地支配で終焉を迎えます。
王族の悲惨な運命は「盛者必衰の理」を象徴しているかのようです。そして、朝鮮王朝の滅亡は、国の盛衰が内政と外交の両輪で決まることを私たちに静かに物語っています。