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神徳王后の家系図【最悪悲劇を知らずに亡くなった知略家の王妃】

太祖や家臣を巧みに操った神徳王后

知略家の神徳王后はどんな王妃だったのか?

家系図から詳しくご紹介します。

 

神徳王后の家系図

神徳王后は康虎景を始祖、康之淵を中始祖とする信川康氏一族の出身でした。

神徳王后が李成桂と結婚し、父の康允成(カン・コンソン)が象山府院君に冊封されたとき、康允成の子孫は谷山を本貫とした谷山康氏として分派しています。

<神徳王后の家系図>

康允成は当時の権門勢家で、李成桂と神徳王后は政略結婚でした。

地方の土豪出身だった李成桂は、康允成の娘を娶ることで中央進出の足掛かりを得たかったのです。

 

また、神徳王后の甥の康祐は李成桂の姪と結婚しており、実は、神徳王后と李成桂は親戚の関係でした。

 

<神徳王后と李成桂は親戚の関係>

康虎景は高麗の初代王・王建の先祖であり、神徳王后は高麗王族とも深いつながりがありました。

<神徳王后と高麗王・王建との関係>

 

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神徳王后はどんな王妃だったのか?

康氏(神徳王后)は第二夫人で「京妻」(開京に住む妻)と呼ばれていました。

一方、第一夫人の韓氏(神懿王后)は「郷妻」と呼ばれていました。

 

康氏の方が家柄が良く、聡明だった康氏(神徳王后)は夫の李成桂から大変寵愛を受けていました。

李成桂とは年の差が21歳の夫婦でした。

 

神徳王后のプロフィール

神徳王后は頭がよく、生まれつき政治的感覚を持っていました。

美しく知略に長けた神徳王后は、息子と娘を有力な家門と結婚させ、着々と政治基盤を築いていきました。

そして、夫の李成桂や大臣を動かし、息子の李芳碩を世子にすることに成功します。

<プロフィール>
神徳王后(シンドクワンフ)
生年:1356年6月14日
没年:1396年8月13日
享年:41歳
在位:1392年8月5日-1396年8月13日
別称号:顕妃
別称:順元顕敬神徳王后
諡号:順元顕敬神徳高皇后
陸墓:貞陵
夫:太祖
氏族:谷山康氏
父親:象山府院君 康允成
母親:晉山府夫人 晋山姜氏

 

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神徳王后の家族

神徳王后は李成桂との間に2男1女の子供をもうけています。

関係 名前 称号 生年-没年 備考
康允成 象山府院君 不詳 高麗の高官
不詳 晋山府夫人 不詳 晋州姜氏
李成桂 太祖 1335-1408 朝鮮初代王
本人 不詳 神徳王后 1356-1396 朝鮮初代王妃
長男 李芳蕃 撫安大君 1381-1398
次男 李芳碩 宜安大君 1382-1398 世子
長女 不詳 慶順公主 不詳-1407 李済の妻

長男の李芳蕃は、高麗最後の国王 恭譲王の兄である定陽君王瑀の娘と結婚しています。

また、長女の慶順公主は開国功臣の李済(興安君)と結婚しましたが、夫は長男の李芳蕃、次男の李芳碩とともに第一次王子の乱で殺害されています。

李済は李成桂の政敵であった李仁任の甥(弟・李仁立の息子)でした。

夫が殺された慶順公主は、身を守るために出家の道を選びました。

 

神徳王后の生涯

神徳王后の生涯をご紹介します。

李成桂との結婚

神徳王后は、1356年に康允成の娘として黄海道谷山で生まれました。

当時、康允成の康氏一族は、既に権力や勢力のある家柄でしたが、更に、李成桂のような一族の発展に役立つ人物を探していました。

 

また、李成桂も戦功は立てていましたが、地方豪族出身の限界を感じていました。

1370年、神徳王后は李成桂と婚姻します。

李成桂と神徳王后の結婚は両者の利害が一致した政略的な結婚だったのです。

 

朝鮮王朝最初の王妃

1392年7月、李成桂が朝鮮を建国し太祖として即位すると、第二夫人の神徳王后は朝鮮王朝最初の王妃となりました。

実は、郷妻の第一夫人の韓氏は建国の1年前の1391年に亡くなっていたのです。

 

このとき、神徳王后には12歳の長男・李芳蕃と11歳の次男・李芳碩がいました。

特に、太祖は温和で頭も良かった末っ子の李芳碩を大変寵愛していました。

 

李芳碩を世子にする

聡明な神徳王后は、財力も権力をある康氏一族をバックに政治の裏舞台で動き始めました。

康氏一族及び自身の基盤を確固たるものにするため、自分の息子を世子にすることを考えます。

 

鄭道傳ら重臣らと企て、次男の李芳碩を王世子にするように太祖に進言しました。

太祖はそれを承認、李芳碩を世子とします。

しかし、このことが後に、大きな遺恨となって残ることになります。

 

世子嬪の密通

順調だった神徳王后にも思わぬ落とし穴がありました。

1393年、李芳碩の正室だった柳氏と内侍であった李萬の密通が発覚します。

 

神徳王后は怒り狂い、李萬を処刑とし、柳氏を廃位して宮殿から追い出しました。

1394年、李芳碩は沈氏を2番目の正室として迎えています。

 

李芳遠の怒り

太祖の世子選びに最も怒りを感じたのが李芳遠でした。

李芳遠は朝鮮建国に最も貢献し、世子としても有力な存在であることは自他ともに認められていました。

 

李芳遠の王妃に対する怒りは、想像を絶するものがあったと思われます。

それは、王妃が亡くなってからの李芳遠の行動を見れば明らかです。

神徳王后も当然、李芳遠を警戒していました。

 

神徳王后が亡くなる

1396年、突然、体調を崩した神徳王后は、息子を心配しながら亡くなりました。

遺体は漢城府中心部の聚賢坊(現・ソウル市中区貞洞)に陵墓としては最高の格式で埋葬されました。

貞陸(チョンヌン)と名付けました。

 

更に、李成桂は供養のために、1397年、1年かけて興天寺を建設しています。

こうした破格の扱いは、李成桂の神徳王后に対する悲しみの深かさを物語っています。

 

微妙に保たれていた秩序が神徳王后の逝去で一気に崩れていきました。

遂に、李芳遠が動き出します。

 

李芳遠による神徳王后の徹底的な排除

1398年、李芳遠が決起、第一次王子の乱を起こし、異母弟の李芳蕃と李芳碩を殺害してしまいました。

神徳王后の親族は連座制で済州島(チェジュド)に流罪となっています。

現在、済州島に康氏の名が多いのはこのためです。

 

更に、1408年に太祖が逝去すると、既に王に即位していた李芳遠(太宗)は神徳王后の痕跡を徹底的に排除し始めました。

太宗は神徳王后を後宮に降格し、貞洞にあった陵墓を都城外の沙乙閑の麓に遷葬し、庶民以下の粗末な墓としました。

 

丁字閣や祭壇は徹底に破壊、石彫りの十二支神像を石橋に使うなど、神徳王后に対する怒りを露骨に表しました。

現在、神徳王后のお墓の石材は、清渓川にかかっている廣通橋(クァントンギョ)の柱や土台に見ることができます。

 

地位の回復と陸墓の再建

1669年、神徳王后は第18代王・顕宗によって妃としての地位が回復されました。

廃位から260年以上経っていました。

 

粗末だったお墓も再建され、立派なお墓となって生まれ変わりました。

現在、陸墓は貞陵と称され、神徳王后は静かに眠っています。

 

まとめ

聡明で策略家の神徳王后は太祖や家臣を巧みに操り、末っ子を世子にしました。

しかし、その企ては李芳遠の怒りを買い、死後、すべて無惨にも破壊されてしまいました。

悲惨な最後を知らずに亡くなったことが、せめてもの救いだったのかもしれません。

 

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