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趙末生の家系図【チョ・マルセンは実在した太宗の側近中の側近】

趙末生(チョ・マルセン)は太宗の側近中の側近でした。

世宗のときも、政治能力で出世街道を進んでいきましたが、賄賂事件で奈落の底に突き落とされます。

趙末生とはどんな人物だったのか?

家系図からご紹介します。

趙末生の家系図

趙末生(チョ・マルセン)は、趙岑を始祖とする楊州趙氏一族の出身です。

趙末生の兄弟を派祖として4つの派(靖平公派、江華公派、文剛公派、提學公派)に分派しています。

<趙末生の家系図>

 

仁祖の王妃になった荘烈王后は趙末生の子孫で文剛公派の出身です。

<荘烈王后の系図>

 

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趙末生はどんな人物だったのか?

趙末生(チョ・マルセン)は、幼い頃から聡明で賢く、鄭夢周の弟子である性理学者の趙庸(チョ・ヨン)下で学問に励みました。

政治に対する能力が高く、太宗から大いに信頼されたといいます。

 

趙末生のプロフィール

趙末生(チョ・マルセン)
字(別名):謹初、平仲
雅号(ペンネーム):社谷、華山
生年:1370年
没年:1447年
享年:78歳
氏族:楊州趙氏
父 :趙誼
母 :楊州申氏

 

趙末生の家族

趙末生(チョ・マルセン)は、4人兄弟の四男として生まれました。

祖父の趙仁弼は戶曹判書、父の趙誼は書雲觀正、判中樞院事を務めた官僚の家庭で育っています。

関係 名前 生年-没年 備考
祖父 趙仁弼 不詳 戶曹判書
趙誼 不詳 書雲觀正、判中樞院事
楊州申氏 不詳
長男 趙啓生 不詳-1438 左参賛、靖平公
次男 趙惟中 不詳-1423 江華都護府使
三男 趙雪牛 不詳 僧侶、判曹溪宗事
四男 趙末生 1370-1447
五男 趙從生 1375-1436 全州府尹

 

趙末生の妻子

趙末生(チョ・マルセン)の妻は檢校漢城府尹を務めた申夏の長女でした。

長男の趙璿は太宗の娘である貞靜翁主と結婚しています。

関係 名前 生年-没年 備考
夫人 申氏 不詳 申夏の娘
長男 趙璿 1410-1437 漢原君、妻は貞靜翁主
次男 趙瓚 不詳 中軍司職、妻は京政姫の娘
三男 趙瑾 1417-1475 全州府尹
長女 不詳 不詳

 

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趙末生の生涯

趙末生(チョ・マルセン)は太宗の側近として政治的な能力を磨き、朝廷での勢力を拡大しました。

世宗に変わってからも、重臣として重用され、出世街道を登っていきました。

 

しかし、賄賂事件に関与していたことが発覚、状況は一変しました。

趙末生は官職を剥奪され、流刑となります。

世宗の強い願望で復帰しますが、復帰後も臣下からの相次ぐ弾劾に苦しい政治生活を送りました。

 

趙末生の誕生

1370年、趙末生(チョ・マルセン)は青雲観正を務めた趙誼 (チョ・ウィ) の息子として、京畿道楊州に生まれました。

若い頃は、鄭夢周 (チョン・モンジュ) の弟子・趙庸 (チョ・ヨン) の門下で修学しています。

1400年11月、太宗が即位したときは、31歳の血気盛んな門下生でした。

 

科拳に合格して出世街道を進む

1401年4月9日、趙末生は32歳で増広文科殿試に首席で合格しました。

料物庫副使に登用されると、監察(正六品)、正言(正六品)、献納(正五品)などの官職を歴任します。

 

1403年には、書状官として明に行き、帰国すると、掌令(正四品)、芸文館直提学(正三品)、承政院同副承旨(正三品)と出世街道を駆け上がっていきました。

1407年、趙末生は科拳重試を二番で合格すると、典農副正に採用され、以降、掌令(正四品)、芸文館直提学(正三品)、判繕工監事(正三品)、承政院同副代言(正三品)を歴任していきました。

官僚になって6年で正三品の官位に就く大出世でした。

 

太宗の側近とし力をつける

太宗から絶大な信頼を得た趙末生(チョ・マルセン)は1416年、知申事(正三品)に任命されます。

知申事は、現在の秘書室長に相当する役職で、まさに太宗の側近中の側近になったことになります。

 

趙末生は1418年に8月に刑曹判書(正二品)、兵曹判書(正二品)と次々に重要官職を任されます。

同年9月に太宗が譲位することを考えると、いかに趙末生が太宗の信頼を得ていたかがよく分かります。

1421年には長男の趙璿を太宗の娘の貞静翁主と結婚させ、王族との絆も強くしています。

 

朝鮮最大の賄賂事件で奈落の底へ

出世街道を邁進していた趙末生(チョ・マルセン)でしたが、突然、奈落の底に突き落とされます。

1426年3月4日、巨額の賄賂を収受した事実が発覚したのです。

趙末生は官職を剥奪され、忠清道懷仁に流刑となりました。

 

重臣達はもっと重い処罰を求めましたが、世宗は断固としてこれを拒絶しました。

実際、趙末生は死罪相当する量刑基準の10倍に相当する賄賂を受け取っていたといいます。

趙末生の順調に進んでいた出世街道はここで止まります。

 

趙末生が釈放される

1428年4月1日、趙末生(チョ・マルセン)が釈放され、漢陽(ソウル)以外の場所で自由に暮らせるようになりました。

1430年4月13日には、世宗が趙末生の職を戻すように命じていますが、家臣の反対にあっています。

 

2年後の1432年、遂に趙末生は同知中枢院事に任命され官職に復帰を果たします。

しかし、以降は地方での赴任が続き、議政府や六曹などの要職で活躍することはありませんでした。

 

趙末生の最後

趙末生(チョ・マルセン)は判中枢院事、慶尚道・全羅・忠清三道都巡問使などを歴任していきます。

1439年には70歳になり、さすがに常参の参列を免除されますが、1440年、芸文館大提学を経て、1446年には領中枢院事に任命されています。

 

1447年4月27日、趙末生の波乱万丈の生涯が閉じました。

享年78歳でした。

お墓は南楊州市水石洞に存在します。

 

趙末生の職歴一覧

趙末生(チョ・マルセン)は生涯、様々な官職を歴任しています。

職歴(及び出来事)
1401 4月9日、増広文科殿試に首席で合格、料物庫副使に登用される
監察(正六品)、正言(正六品)、献納(正五品)などの官職を歴任する
1403 明から帰国、その後
掌令(正四品)・芸文館直提学(正三品)、承政院同副承旨(正三品)を歴任
1407 科拳重試を二番で合格、典農副正に採用される
1408 掌令(正四品)を経て、芸文館直提学(正三品)を務める
1411 判繕工監事(正三品)、承政院同副代言(正三品)に任命される
1416 知申事(正三品)に任命される
1418 8月10日、刑曹判書(正二品)に任命される
8月27日、兵曹判書(正二品)に任命される
9月、太宗が譲位して、世宗が王になる
1422 太宗が逝去
1426 3月4日、賄賂事件で流刑になる
1428 4月1日、趙末生が釈放される
1432 12月8日、同知中枢院事に任命される
1433 1月19日、咸吉道觀察使 兼 咸興府尹に任命される
1434 9月19日、中枢院使に任命される
1435 2月1日、判中枢院事に任命される
12月3日、崇政知中枢院事に任命される
1437 12月1日、藝文館大提學に任命される
1438 6月29日、再び、判中枢院事に任命される
8月5日、趙末生を慶尚道・全羅・忠清三道都巡問使に任命される
1439 7月29日、70歳を過ぎたので、常參の参列を免除される
1440 12月4日、芸文館大提学に任命される
1444 5月9日、判中樞院事、知成均館事に任命される
1446 1月24日、領中枢院事に任命される
1447 4月27日、78歳で死去

 

まとめ

趙末生(チョ・マルセン)は有能な政治家でしたが、最後まで政治家の頂点に立つことはできませんでした。

巨額の賄賂を受け取っていた贓罪(ぞうざい)が致命的でした。

死罪に相当する罪でしたが、世宗が流刑にとどめ、さらに朝廷の反対を押し切って再登用しています。

しかし、中央に復帰することはなく、最後まで罪の重さを背負った生涯となりました。

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