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サイムダン(師任堂)の死因は何?【申師任堂墓に眠る才女】

サイムダン(師任堂)の死因は何だったのか?

苦労の多かった結婚生活から眠るお墓まで、彼女の死に関して分かりやすく解説します。

サイムダンの死因

サイムダン(申師任堂)の死因は史料によると心臓の病によるものと考えられています。

1551年5月17日、平安道に転居してすぐ、サイムダンは48歳でこの世を去りました。彼女は、1年ほど前から胸の痛みを訴え、床に伏すようになったと言われています。

5月14日、病状が急変します。しかし、夫の李元秀は仕事で長男の李璿と三男の李珥を連れて留守でした。

李珥(栗谷)の記録によると、サイムダンが亡くなった日、父親は荷物の中に赤く染まった真鍮の器を発見しています。

これは、後に「彼女の吐血を示唆したもの」と考えられました。

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当時の医療知識から見る「心臓の病」

16世紀の朝鮮では、「心臓病」の概念はなく、主に胸痹(きょうひ)、真心痛(しんしんつう)、気虚(ききょ)などの症状名で記録されていました。

特に、気虚(ききょ)は実録にも度々、見られ、身体のエネルギー(気)が不足して、動悸や倦怠感などが表れる症状とされました。

従って、サイムダンの死因とされる心臓の病も、当時の医学的理解では「気虚」として認識されていた可能性があります。

また、朝鮮時代史研究者のイミソン博士の論文によると、両班の女性の平均寿命は45歳とされています。従って、サイムダンの48歳はほぼ平均的な寿命だったと言えるでしょう。

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苦労が多かった結婚生活

サイムダンは結婚直後に父を亡くし、母の介護と4男3女の育児に追われました。

夫・李元秀は最初こそ賢妻に満足していたものの、次第に心が離れ浮気に走っています。

サイムダンは家庭と心労に苦しみ、病に倒れてしまいます。彼女の結婚生活は苦労に満ちたものでした。

こうした労働と心労が、彼女の体にじわじわとダメージを与えていたのです。

ドラマ「師任堂」と史実の違い

ドラマ「師任堂、色の日記」では、サイムダンは独自の芸術世界を追求する情熱的な女性として描かれています。

ドラマの彼女はダメな夫に対しても一定の尊敬をもって接していましたが、史実におけ夫婦関係は、冷え切っていたと推測されます。

また、ドラマでは恋愛要素も多く含まれていますが、実際のサイムダンは家族の介護や教育、家計の管理など現実的な家庭内の仕事に追われていました。

史実の彼女の姿は、華やかな芸術家というよりも、現実的な苦労を重ねた「良妻賢母」の女性像に近いといえます。

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結婚後の主要な出来事まとめ

結婚してからの出来事をまとめると次の通りです。

<結婚生活での出来事>

年月 出来事
1522年 8月20日、19歳で李元洙と結婚
李元洙の同意のもと江陵の実家で暮らす
父・申命和が亡くなる
母の面倒を見るため、新居と実家を行き来する
1536年 33歳の時、江陵の実家に戻り、李珥を出産する
1537年 漢城に戻る
1541年 38歳の時に漢城で母親と暮らす
1542年 末っ子の李瑀が生まれる
1551年 5月17日、48歳で病死

詳しい史実についてはこちら>>師任堂(サイムダン)、色の日記の実話【本当に良妻賢母だったのか】

サイムダンのお墓

サイムダン(師任堂)のお墓は京畿道坡州市にある李珥遺跡内の家族墓地にあります。

夫の李元秀、息子の三男・李珥(イ・イ)とその妻、そして、長男の李璿(イ・ソン)と一緒に眠っており、合祀墓として埋葬されています。

墓主は本来、夫の李元秀ですが、サイムダンの方が歴史的評価が高いため、一般的に申師任堂墓と呼ばれています。

<申師任堂墓>

サイムダンの家族墓は通常の墓とは違い、子孫の墓を先祖の上に祀る儒教的な価値観を反映した形式をとっています。

一番上には、儒学者・李珥(栗谷)の墓、次に李珥の妻、長男の李璿、そして、サイムダンと夫・李元秀の合葬墓があります。

まとめ

サイムダンの死因は、心臓疾患である可能性が高いものの、その根底には夫との不和、育児と介護の負担といった精神的・肉体的ストレスがあったと考えられます。

李元秀はサイムダンの父親が娘の才能を理解し、伸ばしてくれることを優先に選んだ夫でした。しかし、皮肉にもその夫により、肉体的、精神的な苦労を強いられることになりました。

申師任堂墓に眠る才女・サイムダンは、今なお「良妻賢母」の象徴として多くの人に尊敬され続けています。

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