純元王后(スンウォンワンフ)は、外戚・安東金氏が朝廷において勢力を拡大していく過程で、重要な役割を担った王妃でした。
この記事では、純元王后の家系図を手がかりに、父・兄弟・子女・養子との関係を整理し、安東金氏がどのようにして朝廷での権力を掌握していったのかを、史実に基づいて詳しく解説します。
純元王后の家系図
純元王后は第23代国王・純祖の正室で、安東金氏の出身です。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<純元王后の家系図>
安東金氏の始祖・金宣平は高麗王朝の初代王・太祖(王建)を助けた功臣で、朝鮮王朝を通じて多くの高官を輩出した名門氏族です。
純元王后の先祖
| 代 | 名前 | 時代 | 最終官職 |
| 八代祖 | 金尚憲 | 仁祖~孝宗 | 左議政 |
| 七代祖 | 金光燦 | 仁祖~顕宗 | 同知中枢府事 |
| 六代祖 | 金壽恒 | 顕宗~粛宗 | 領議政 |
| 五代祖 | 金昌集 | 粛宗~景宗 | 粛宗~景宗 |
| 高祖父 | 金濟謙 | 粛宗~景宗 | 右副承旨 |
| 曾祖父 | 金達行 | ||
| 祖父 | 金履中 | ||
| 父 | 金祖淳 | 正祖~純祖 | 弘文館大提学 |
このように、純元王后の家系は王朝の中枢と深く結びついており、王妃として入宮する以前から、政治的影響力を備えた一族でした。
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正祖は信頼する重臣・金祖淳(キム・ジョスン)に世子・李玜(純祖)を支えるように依頼していたとされます。
そのため、世子嬪を選ぶ揀択の途中で正祖は亡くなりますが、事実上、金祖淳の娘(純元王后)が世子嬪になることは既定路線でした。
1800年に純祖が即位すると、その2年後に純元王后は正式に王妃となります。
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純元王后(スンウォンワンフ)は政治の表舞台に立つことはありませんでしたが、外戚・安東金氏による勢道政治の象徴的な存在でした。
純元王后のプロフィール
没年:1857年8月4日(享年69歳)
夫:第23代王・純祖(1790-1834)
氏族:安東金氏
純元王后の家族
純元王后(スンウォンワンフ)は純祖との間に、2男3女の子供を生んでいます。
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 長男 | 孝明世子 | 1809-1830 | 嫁:神貞王后 |
| 次男 | 大君 | 1820-1820 | 夭逝 |
| 長女 | 明温公主 | 1810-1832 | |
| 次女 | 福温公主 | 1818-1832 | |
| 三女 | 徳温公主 | 1822-1844 | |
| 養子 | 哲宗 | 1831-1864 | 第25代国王 |
純元王后の両親と兄弟
純元王后は父・金祖淳と母・青松沈氏の間に3男5女の長女として生まれました。
<両親と兄弟>
| 関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
| 父 | 金祖淳 | 1765-1832 | 弘文館大提学 |
| 母 | 青松沈氏 | 1766—1828 | |
| 長男 | 金逌根 | 1785—1840 | |
| 次男 | 金元根 | 1786—1832 | |
| 長女 | 純元王后 | 1789—1857 | 純祖の正室 |
| 三男 | 金左根 | 1797—1869 | 領議政 |
| 次女 | 貞敬夫人 | 詳細不明 | 夫:南久淳 |
| 三女 | 貞敬夫人 | 詳細不明 | 夫:李谦在 |
| 四女 | 詳細不明 | 詳細不明 | 夫:李肯愚 |
| 五女 | 詳細不明 | 詳細不明 | 夫:李章绍 |
純元王后の弟・金左根(キム・ジョスン)は、姉を後ろ盾に権力を拡大し、最終的には領議政にまで上り詰めます。
哲宗の治世では、国王が重要事項を金左根に諮るほど、その権勢は絶大でした。
ドラマ「風と雲と雨」に登場する壮洞金氏のキム・ジャグンは、この金左根をモデルにしたとされています。
安東金氏黄金時代への歩み|純元王后の役割
安東金氏による勢道政治は、時に王族すらその影響下に置いた、外戚による政治支配でした。
こうした権力はいかにして形成されていったのか。本章では、その出発点に位置づけられる純元王后の役割に注目し、安東金氏黄金時代への歩みを整理します。
純祖の親政|黄金時代の基礎を築く
純祖が即位した当初、国王はまだ11歳と幼く、大王大妃・貞純王后による垂簾聴政が行われました。この期間、金祖淳は表立った政治活動を控えていましたが、1803年に貞純王后が政務から退くと状況は大きく変わります。
純祖の親政が始まると、国舅となった金祖淳は一族を朝廷の要職に登用し、急速に影響力を強めていきました。この時期、王妃である純元王后自身はまだ若年で、政務に直接関与していたとは言えません。
しかし、安東金氏が王権中枢へ進出するうえで、純元王后は重要な象徴的存在であったと考えられます。
孝明世子の改革|安東金氏の一時的後退
1819年、純祖は安東金氏の勢力を牽制するため、息子・孝明世子の妃に豊壌趙氏の女性を迎えさせます。代理聴政を任された孝明世子は、妻・孝顕王后の実家である豊壌趙氏一族から、父・趙万永や親族を要職に就け、安東金氏の排除を進めました。
この結果、安東金氏の勢力は一時的に後退し、純元王后の宮廷内での影響力も弱まったと考えられます。
しかし、1830年に孝明世子が急逝すると、再び安東金氏が勢力を回復し、純元王后の立場も強まっていきました。
哲宗を養子に迎える|権力の継続
憲宗が23歳で急逝すると、王位を継ぐ人物が不在となりました。そこで安東金氏は、江華島で暮らしていた李昪を王位に擁立し、純祖と純元王后の養子として哲宗を即位させます。
これにより、純元王后は垂簾聴政を行う立場となり、宮廷内で再び大きな影響力を持つ存在となりました。
実際の政務は兄・金左根が主導したとされますが、こうして安東金氏は、哲宗の時代まで約60年にわたり勢道政治を展開していきます。
純元王后が登場するドラマ
純元王后(スンウォンワンフ)が登場するドラマは多くありません。
・雲が描いた月明り(2016年、ハン・スヨン)
・哲仁王后(2020年、ぺ・ジョンオク)
まとめ
純元王后の家系図をたどると、安東金氏が王朝政治の中枢に深く関わってきた一族であったことが分かります。
勢道政治の初期段階において、純元王后は一族が権力中枢へ進出するための象徴的存在でした。やがて、父・金祖淳、弟・金左根による政治支配が進むにつれ、純元王后はその体制を支える立場となっていきます。
こうして、純元王后を軸とした安東金氏の勢道政治は、哲宗の時代まで約60年の長期にわたって続くことになりました。