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百済(ペクチェ)の歴史年表【ドラマの史実を歴代王毎に詳しく知る】

時代劇を見るときの参考にしてください。

不足の年代は随時、追加していく予定です。

日付は陰暦を採用しています。

 

百済の国号の始まり

百済の国名の由来は分かっていません。

三国史記によると、百済は紀元前18年、高句麗の始祖である朱蒙の三男・温祚によって建国されたと記録されています。

しかし、中央集権的な国家の確立は4世紀半ばと考えられています。

 

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聖王の生涯(523年~554年)

<聖王の生涯と出来事>

(書記)は日本書紀、(史記)は三国史記に記述された出来事です。

聖王は日本書紀では「聖明王」と記述されていますが、「聖王」に統一しています。

出来事
不詳 武寧王の息子として生まれる
523 武寧王が亡くなり、第26代王(聖王)として即位する
526 熊津城を修復、沙井柵(사정책)を建てる(史記)
529 高句麗に五谷之原の戦いで戦死者2千人の惨敗をする(史記)
538 聖王は首都を熊津から泗沘に遷都し、国号を「南扶余」と改める(史記)
540 将軍燕會に高句麗の牛山城の攻撃を命じるが失敗する(史記)
541 任那復興を名目として新羅討伐のための軍事援助を倭国に要請する(書記)
548 高句麗と濊の連合が百済に侵攻、新羅に救援を要請して高句麗軍を大破する(史記)
550 1月、将軍・達己が高句麗の道薩城を陥落させる(史記)
3月、高句麗が逆に、百済の金峴城を奪う(史記)
551 3月、漢山城(京畿道広州市)の地を奪回する(書記)
553 10月、王女を新羅・真興王に嫁がせる(史記)
10月、百済の王子余昌(威徳王)が百合野に砦を築き、高句麗軍に大勝利する(書記)
554 聖王逝去。孤立した王子昌を助けようとして殺害される(書記)

 

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威徳王の生涯(525年~598年)

<威徳王の生涯と出来事>

(書記)は日本書紀、(史記)は三国史記に記述された出来事です。

聖王は日本書紀では「聖明王」と記述されていますが、「聖王」に統一しています。

出来事
525 第26代王・聖王の長男として生まれる
553 10月、29歳の王子時代に軍隊を率いて百合野の戦闘で高句麗軍を敗退させる(書記)
554 12月、管山城戦闘。聖王が新羅の兵士に殺害される(書記)
555 2月、弟の恵を日本に遣わして、「聖王は賊のために殺された」と報じる(書記)
555 8月、王位につかずに僧となろうとしたが、臣下に止められる(書記)
三国史記では、聖王の死後直ちに即位、10月に熊川城に侵攻してきた高句麗を撃退したと記述されている
557 3月1日、余昌が威徳王として即位する(書記)
561 7月、倭国や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、大敗北する(史記)
570 北斉の後主に使節を送り「使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王」に封じられる(史記)
571 北斉から「使持節・都督・東青州諸軍事・東青州刺史に封じられる(史記)
577 2月、先立った王子の冥福を祈るために王興寺を建てる
581 北斉が滅び隋が興ると、隋に使節を送り「上開府・儀同三司・帯方郡公」に封じられる(史記)
584 陳に遣使して朝貢する。(史記)
586 陳に遣使して朝貢する。(史記)
589 済州島にたどり着いた隋の軍船を援助、隋に使者を送って中華統一を祝賀する。朝貢が免除される(史記)
598 9月、隋に使者を送って、高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出る(史記)
その事を聞きつけた高句麗が百済に侵攻してくる
598 12月、威德王が亡くなる。群臣が協議して威徳王と諡する(史記)

 

武王の生涯(580年~641年)

武王は、聖王以降、衰退した百済を再建した王として評価されています。

<武王が登場するドラマ>
・薯童謠(ソドンヨ)

<武王の生涯と出来事>

出来事
580 第29代法王の子として生まれる(威徳王の子の説あり)
600 法王が在位1年で逝去、武王が第30代王として即位する
602 8月、新羅の阿莫山城を攻撃するが大敗する
新羅の小陀、畏石、泉山、甕岑の4城を攻めるが敗れる
605 8月、新羅が東鄙(東部)に侵略する
607 3月、燕文進と佐平を朝貢使として隋に派遣する
高句麗征伐の要請、隋の煬帝は許可する
5月、高句麗が松山城を攻めるが死守する
高句麗に石頭城が襲われ男女3000人が捕虜になる
608 3月、隋に遣使を派遣して朝貢する
611 2月、隋の煬帝が高句麗を討伐することを聞き、武王が国智牟を派遣して出征の期日を尋ねる(支援の意思を見せる)
10月、新羅の椵岑城を攻めて、陥落させる
616 新羅の母山城を攻撃する
618 9月、高句麗の嬰陽王が逝去。栄留王が即位する
百済の椵岑城が新羅に奪回される
煬帝が殺害され、隋が滅びる。唐が建国、李淵が初代皇帝になる
621 10月、唐に遣使を派遣し、果下馬を献上する
623 10月、新羅の勒弩県を攻撃する
624 大臣を唐に派遣して朝貢する
唐の高祖(李淵)が武王を「帯方郡王百済王」に冊封する
7月、唐に遣使を派遣して朝貢する
10月、新羅の6つの城、速含、櫻岑、歧岑、烽岑、旗懸、冗柵を攻め落とす
625 11月、唐に遣使を派遣して朝貢する
626 唐に光明鎧を献上し、高句麗の塞路を訴える。
唐の高祖が三国(高句麗、新羅、百済)に和睦するよう諭す
8月、王在城を攻め、城主・東所を殺害する
8月、唐の高祖(李淵)が譲位、次男の李世民が即位する(太宗)
627 7月、新羅の西部2城を奪う
新羅に奪われた土地を奪回しようと熊津に兵を集める
新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求める
8月、武王は甥の鬼室福信を唐に派遣して、表面上は仲裁を受け入れる
628 2月、新羅の椵峯城を攻め入る
629 9月、唐に遣使を派遣して朝貢する
631 9月、唐に遣使を派遣して朝貢する
632 1月、新羅の真平王が逝去。善徳女王が第27代王として即位する
7月、新羅に兵を出して攻める
633 8月、新羅の西谷城を攻めて陥落させる
634 2月、王興寺(忠清南道扶余郡)が完成する
636 2月、唐に遣使を派遣して朝貢する
5月、百済の將軍于召が新羅の独山城を500人の兵士で攻撃する
新羅の将軍閼川に敗北、百済の将軍于召は捕らえられる
639 10月、唐に遣使を派遣し、金甲と雕斧を献上する
640 2月、唐に子弟を送って、国学への入学を請う
唐の太宗、天下の有名な儒学者を多く呼び寄せて学官にし、国学で講義させている
641 3月、武王が死去する

 

義慈王の生涯(599年~660年)

義慈王は百済最後の王です。

<義慈王が登場するドラマ>
・大王の夢
・淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)
・階伯(ケベク)

<義慈王の生涯と出来事>

出来事
599 武王の息子として生まれる。母親は諸説ある
611 10月、武王が新羅の城を初めて陥落させる。椵岑城(カジャクソン)
615 義慈王に息子の隆(ユン)が生まれる
631 義慈の息子・豊章と善光を人質として日本に送る
632 義慈が太子に冊封される
633 武王が新羅の西谷城を陥落させる
641 武王が亡くなり、義慈が第31代王として即位する
642 沙宅一族を粛清する
異母弟の翹岐(キョギ)とその母妹女子4人を含んだ貴族40人を島流しにする
642 7月、義慈王が自ら大軍を動員して新羅の40余城を攻略する
642 8月、将軍・允忠が大耶城を陥落する
金春秋の娘、古陀炤公主と城主・品釈(古陀炤の夫)を殺害する
643 義慈王は高句麗と同盟を結ぶ
新羅の党項城の奪回を計画するが、新羅が唐に救援を求めたため中止する
644 扶余隆が30才で太子として冊封される
648 百済の侵略が甚だしく、新羅が唐に援軍を依頼する
金春秋と息子の金文王が唐に派遣され、新羅・唐同盟が成立する
649 8月、道薩城(忠清北道槐山郡)付近で金庾信に大敗を喫す
651 唐に朝貢した折に、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られるが無視する
654 真徳女王が亡くなり、金春秋が即位する
655 百済と高句麗(靺鞨)の連合軍が新羅の30城を奪回する
この頃から連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、既に朝政を顧みなくなる
これを厳しく諫めた佐平の成忠(あるいは浄忠)を投獄する
656 義慈王は庶子41名を佐平として任命し領地まで与える
659 百済の侵攻に対して、新羅が唐に救援を求める
660 唐と新羅が軍事同盟を結ぶ
唐の大軍13万、新羅の軍5万の連合軍が百済を攻める
660 7月9日、黄山伐の戦いで階伯が金庾信に敗れる
熊津江口では唐軍に百済軍が敗れる
7月12日、泗沘城が唐・新羅連合軍に包囲される
7月13日、王子の泰を泗沘城に残し、義慈王と太子の孝が熊津城に逃げる
王子の隆が降伏、泰も降伏する
7月18日、義慈王が降伏する
9月3日、蘇定方は義慈王、太子孝、王子泰、隆、演、大臣、将軍88名と百姓12807人を人質として連行する
11月~12月:義慈王が唐で病死する
661 6月、高句麗交戦中に武烈王が病死する
663 10月、白村江の戦い
百済遺民と倭国の連合と唐と新羅の連合が激突。唐・新羅連合が勝利する

 

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