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王の顔の若き光海君の実話を徹底解説【史実の光海君の実像とは】

王の顔は光海君を名君の素質をもった世子が王になる過程を描いた作品です。

弟を殺害して、義母を幽閉するなど暴君のイメージが強い光海君ですが、実話ではどうだったのか?

若き日の光海君の実話を詳しく解説します。

 

王の顔の光海君の実話

王の顔に登場する光海君の実話についてご紹介していきます。

光海君は1575年に第14代国王・宣祖の側室恭嬪金氏の次男として生まれました。

3歳年上の兄に臨海君がいます。

 

父親の宣祖のコンプレックス

光海君の父親の宣祖は側室の子供であり、本来であれば王になれる地位ではありませんでした。

しかし、先王の明宗に跡継ぎがなく、側室の子・宣祖が王に選ばれました。

宣祖は正統な王ではないというコンプレックスを常に抱えていたといいます。

王の顔では宣祖のこのコンプレックスを「自分は王になる顔ではない悩み」としています。

 

日本軍の朝鮮侵略(壬辰倭乱)

1592年に豊臣秀吉が中国征服のため、朝鮮への侵略を開始しました。

壬辰倭乱(イムジンウェラン)です。

 

日本軍は釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上していきました。

そして、たったの半月で漢城(現在のソウル)を制圧してしまいました。

この進軍に恐れをなした宣祖は、既に臣下、王妃、女官などを連れて漢城を捨て、平壌へ避難していました。

逃げる途中に、国王一行は民衆から罵声が浴びせられ、石を投げつけられたとも言われています。

 

日本軍は更に北上して、平壌に迫ったきました。

そこで、宣祖の一行は平壌を脱出して、寧辺(ヨンピョン)へ逃げていきました。

 

光海君を世子に指名

ここで、宣祖は分朝の命令を下します。

宣祖は明との国境にある義州(イジュ)へ避難、そこを「本朝」として、明への援軍を要請する。

光海君は寧辺に留まり、光海君のところを「分朝」としました。

 

このときに、気性が荒く、問題児の臨海君ではなく、光海君を世子としました。

このとき光海君は18歳でした。

 

光海君の活躍と戦争集結の結果

光海君は寧辺を南下して義兵(民間の軍隊)とともに日本軍と戦って功績を上げました。

一方、宣祖から援軍を要請された明は、四万の兵で日本軍が制圧した平壌城を総攻撃しました。

さすがの日本軍もこれには耐えきれず、漢城(ソウル)から撤退しています。

 

このとき、日本軍に捕らえられていた臨海君と順和君(スンファグンジク)も義兵による攻撃によって解放されています。

臨海君らは、地方に義兵を集めに行って、加藤清正に捕まり捕虜になっていました。

この出来事は臨海君にとって大変な屈辱で、解放後は生活も乱れ、酒浸りの日々を過ごしたといいます。

 

また、仁嬪金氏の息子の信城君は義州に避難する途中で病気のためにあっけなく亡くなってしまいました。

 

1593年に日本と明の間で講和条約が結ばれ、日本軍は漢城から釜山まで撤退します。

戦場となった朝鮮を無視した講和条約でしたが、これによって宣祖はやっと都への復帰を果たすことができました。

 

1594年に宣祖は光海君を世子にすることを明に伝えましたが、世子が長子出ないことを理由に明は拒否しています。

光海君は世子としては正式に認められないままでした。

 

日本の再度の侵略(丁酉再乱)

1597年、日本は講和条約の条件を不満として、再び、日本軍は朝鮮に侵略を始めました。

丁酉再乱(チョンユヂェラン)です。

 

日本軍は前回同様に義兵に苦戦しながら侵攻しますが、侵略途中で秀吉が亡くなり、

日本軍は全面撤退することになります。

 

しかし、朝鮮がこの戦争で受けた被害は莫大なもので、多くの人が亡くなり、耕地の多くは酷く荒らされてしまいました。

また、日本軍は5万~6万人の朝鮮人を奴婢として日本へ連れ帰ったと言われています。

日本で人気の陶器を制作する多くの陶工も日本へ連れていかれました。

 

戦争による被害

この戦争で日本軍に対して勇敢に戦った光海君は民衆から大きな支持を得ることになりましたが、都を捨てた宣祖は非難されることになります。

明に援助を頼んで日本軍を撤退させたと思っている宣祖は内心おもしろくありませんでした。

この心情は光海君に対する恨みになっていきます。

 

光海君が即位するまでの道のり

1600年に病弱だった王妃の懿仁王后が亡くなりました。

宣祖は1602年に新たに18歳の仁穆王后を王妃として迎えました。

光海君にとっては9歳も若い王妃が義理の母となりました。

 

1603年に貞明公主、1606年に待望の王子・永昌大君が生まれました。

この頃から、永昌大君を世子に推す小北派と光海君を世子のままとする大北派の争いが水面下で始まりました。

そして、1608年に宣祖が逝去すると、幼い永昌大君よりも実績・年齢で光海君が現実的な選択肢として王に選ばれました。

 

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史実とドラマの違い

王の顔と史実を比較すると、意外にも王の顔が史実に忠実に描かれていることが分かります。

もちろん、カヒ(キムゲシがモデル)が光海君の幼なじみであったことや、架空のキム・ドチが絡むエピソードはフィクションです。

 

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王の顔に登場する実在した人物

王の顔には多くの実在した人物が登場します。

名前 読み方 備考
光海君 クァンヘグン 第15代国王
ユ・ジョンファ 光海君の妻
カヒ キム・ゲシがモデル
臨海君 イメグン 光海君の兄
宣祖 ソンジョ 第14代国王
懿仁王后 ウイインワンフ 宣祖の正室
仁嬪金氏(キム貴人) インビンキムシ 宣祖の側室
信城君 シンソングン 仁嬪金氏の息子
定遠君 ジョンオングン 仁嬪金氏の息子
ホン淑容 ホン・スギョン 宣祖の側室
仁穆王后 インモクワンフ 宣祖の継室
永昌大君 ヨンチャンデグン 仁穆王后の息子
金公諒 キム・ゴンリャン 仁嬪金氏の兄(史実は弟)
柳自新 ユ・ジャシン 光海君の妻の父
許筠 ホ・ギュン 光海君の重臣
李山海 イ・サネ 光海君の重臣
鄭澈 チョン・チョル 光海君の重臣
鄭汝立 チョン・ヨリプ
李如松 明の将軍
ヌルハチ 後の清の皇帝

 

まとめ

光海君が王になるまでの実話を調べると、意外にも王の顔が史実に忠実に描かれていることが分かりました。

王の顔は史実をモチーフにキムゲシがモデルのカヒや架空のキム・ドチを絡ませ物語を巧みに展開しています。

 

また、王の顔では王の正統な継承でない宣祖のコンプレックスを「王の顔でないコンプレックス」に置き換えています。

史実を知らなくても十分に楽しめる作品ですが、史実を知るとより深く物語が楽しめること間違いありません。

史実を知ったら、もう一度作品を見るのもおすすめですよ。

 

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