ドラマ「高麗契丹戦争」の実話とは?
史実とドラマ、どこが違う? 顕宗の運命を分けた戦争とは?
史実とドラマの違いを交えながら詳しく解説していきます。
史実とドラマを徹底比較
高麗時代の記録は非常に少なく、この時代の歴史ドラマは主要事件の隙間を感動を引き出す話でつなぎ、歴史を損なわない程度にストーリーを創造する必要があります。
そこで、まず、ドラマ「高麗契丹戦争」の主要な事件を史実と徹底比較してみました。
No. | ドラマの主要な事件 | 史実 | 創作 |
1 | 千秋太后による強制出家と暗殺計画 | ◯ | |
2 | 康兆の反乱 | ◯ | |
3 | 元貞王后、元和王后との結婚 | ◯ | |
4 | 契丹の40万人の兵士による高麗侵攻 | ◯ | |
5 | ヤン・ギュによる興化鎮の死守 | ◯ | |
6 | 30万の兵を率いた康兆の敗北 | ◯ | |
7 | 顕宗の都落ちと開京の陥落 | ◯ | |
8 | 元貞王后の妊娠と流産 | ◯ | |
9 | 顕宗の落馬による大怪我 | ◯ | |
10 | ガムチャンの助言による元成王后との結婚 | ◯ | |
11 | 豪族パク・ジンの反乱 | ◯ | |
12 | 契丹の10万人の兵士による再侵攻 | ◯ | |
13 | カン・ガムチャンの亀州大勝利 | ◯ |
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千秋太后による強制出家と暗殺計画
<史実では>
千秋太后(第7代王・穆宗の母)は景宗の第三王妃であり、顕宗の母の姉でした。
つまり、顕宗にとって叔母にあたります。
しかし、彼女は愛人である金致陽との間に子をもうけると、その子が可愛くなり、王位につけたいと考えるようになります。
そのため、太祖の血を引く正当な王位継承者である顕宗は邪魔となり、強制的に出家させたのです。
さらに、千秋太后は息子の王位継承を確実なものにするため、何度も刺客を送り、顕宗の命まで狙ったといわれています。
顕宗について詳しくは>>高麗王・顕宗の家系図【高麗契丹戦争で高麗の独立を守った王】をご覧下さい。
<ドラマでは>
顕宗が即位するまでの出来事は、ほぼ史実に基づき作られています。
ドラマの一つのエピソードとして取り上げられている「僧が顕宗を床下に隠し守ったこと」は高麗史に書かれている史実です。
ドラマでは度々、「龍の子孫」という言葉がでてきますが、顕宗は太祖の血を受け継いだ王位継承権をもつ最後の龍の子孫でした。
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契丹の40万人の兵士による高麗侵攻
<史実では>
康兆の反乱は国内で国民の批判を浴びただけでなく、契丹(遼)にも知られ、高麗侵攻の名分とされました。
1010年、契丹の聖宗は自ら40万の兵を率いて高麗に侵攻し、これが契丹の第二次高麗侵攻となります。
楊規(ヤン・ギュ)と李守和が契丹の大進軍に対して、必死に対抗して、奇跡的に興化鎮を死守しました。
一方、30万の兵を率いた康兆は契丹軍に対して果敢に抗戦、何度か勝利を収めると慢心となり、最終的には敗北して殺害されています。
その後、契丹軍は破竹の勢いで開京に迫り、驚いた顕宗は開京を脱出して羅州へ逃れました。
このときの悲惨な状況は高麗史に次のように記録されています。
朔契丹主入京城,焚燒太廟、宮闕、民屋皆盡。
<高麗史:1011年1月13日>
(京城は高麗の首都・開京のこと)
西京を経て開京に来た契丹軍ですが、顕宗が城を捨てたことにより、顕宗を捕らえることができず、厳しい寒さと飢餓、背後攻撃に悩まされて、結局、10日で撤収することになります。
契丹軍が戦える期間は川の氷が溶けて大軍の渡河が困難となる前の1月までと限られていたのです。
<ドラマでは>
ドラマは、ほぼ史実どおりのストーリ展開になっています。
契丹の侵攻に対抗する楊規(ヤン・ギュ)の活躍が、ドラマ前半に描かれ、それまで韓国でも知られていなかったヤン・ギュの存在が再評価されました。
ドラマでは、姜邯賛(カン・ガムチャン)が「王が入朝する」という表文を携えて契丹へ行き、捕らえられてしまいますが、このエピソードはドラマのフィクションです。
また、開京を脱出した元貞王后がお腹の子を失いますが、このことは史実には記録がありません。
契丹の10万人の兵士による再侵攻
<史実では>
1018年、契丹が10万の軍勢で再び、高麗に侵攻すると、顕宗は師の姜邯賛(カン・ガムチャン)を指揮官に任命しました。
顕宗が開京死守を決断したことで契丹軍は開京攻略に失敗、撤退中に亀州で姜邯賛率いる高麗軍に全滅させられます。
このときの状況を高麗史では次のように記録しています。
朔丹兵過龜州,邯贊等邀戰,大敗之,生還者僅數千人
<高麗史:1019年2月1日>
契丹の都統・蕭排押(ソ・ベアプ)は武器防具を棄てて逃亡、帰国すると敗戦の罪を問われて免官されています。
この「亀州大捷」により、姜邯賛は英雄となり、これ以降、高麗は形式的な朝貢で独立を維持することになります。
亀州の大勝利の裏には、実は、顕宗と姜邯賛の二人の暗黙の協力があり、高麗の独立には顕宗の不撤退の決断が大きく影響していました。
<ドラマでは>
顕宗が開京から逃げずに死守したこと、そして、姜邯賛が亀州で大勝利を収めたことは、ドラマ後半の見せ場として描かれています。
なお、開京に高麗軍の大軍が守っていると見せるために、顕宗自ら松明を持って、民衆とともに偽装したのは、勝利をよりドラマティックに見せるための創作です。
顕宗と姜邯賛の関係
<史実では>
姜邯賛は顕宗が幼い頃から教育係を務め、彼に学問や政治の基本を教えました。
そのため、顕宗は姜邯賛を生涯の師と仰ぎ、政務の重要な決断では彼の助言を聞くことが多かったといいます。
姜邯賛も顕宗は、君主であり、ともに戦う戦友と考えていたのではないでしょうか。
亀州での大勝利も相互の信頼によるものであり、二人の強固な関係が契丹との戦いを勝利に導き、高麗の独立を守る大きな要因となったと考えます。
<ドラマでは>
姜邯賛と顕宗の出会いは、顕宗が王になってからであり、教育係と言うよりは相談相手として描かれています。
また、姜邯賛と顕宗は共に試練を乗り越えていくことにより、互いに成長するストーリー展開になっています。
創作された豪族パク・ジンの反乱
後半の戦争場面の前に、豪族のパク・ジンが息子を失った恨みから、執拗に顕宗を付け狙うストーリーがしばらく展開されていますが、パク・ジンは架空の人物であり、この部分はすべてドラマの創作です。
韓国では、顕宗の落馬による大怪我以降のストーリーを巡り、「高麗契丹戦争」の原作者キル·スンス作家と製作陣が激しく対立しました。
脚本イ·ジョンウは、豪族パク・ジンの反乱を創作することで、顕宗の内政にたいする取り組みと成長を描きたかったのではないかと思います。
まとめ
顕宗は数々の陰謀に翻弄されながらも、最終的に高麗を契丹から守った王として歴史に名を刻みました。
幼少期の苦難を乗り越え、姜邯賛とともに契丹との戦争を勝ち抜いた功績は後世に語り継がれています。
史実と比較しながらドラマを見ることで、顕宗の波乱に満ちた生涯と高麗契丹戦争の歴史的な意義を感じることができます。