時代劇を見るときの参考にしてください。
不足の年代は随時、追加していく予定です。
日付は陰暦を採用しています。
高麗の国号の始まり
918年に王建(太祖)が後高句麗の王・弓裔を追放して、高麗を建国しました。
国号の「高麗」は高句麗を継承するという意味が込められています。
936年には朝鮮半島の統一を成し遂げ、高麗は1392年の李氏朝鮮建国まで、456年続く国家となりました。
【PR】スポンサーリンク顕宗の生涯(992年~1031年)
顕宗は、不遇な幼少期を送り、波乱の中で即位をした王でしたが、高麗契丹戦争で将軍の姜邯賛と契丹の侵攻から高麗を守り抜き、独立を維持した王です。
<顕宗が登場するドラマ>
・千秋太后
・高麗契丹戦争
・千秋太后
・高麗契丹戦争
<顕宗の生涯と出来事>
| 年 | 出来事 |
| 992 | 父の王郁と母の献貞王后の間に不倫で生まれる |
| 顕宗の母は彼を生んだ後に病死、父は流刑となる | |
| 997 | 父・王郁が亡くなる |
| 1003 | 顕宗は大良院君に冊封される |
| 1006 | 穆宗の母・千秋太后が顕宗を強制的に出家させる |
| 千秋太后が顕宗の暗殺を試みるが失敗する | |
| 1009 | 2月、康兆が政変を起こし、穆宗を廃位、金致陽の一派を全員斬首する |
| 3月、顕宗が第8代高麗王に即位する | |
| 1010 | 11月10日、契丹の皇帝が40万の兵を率いて高麗に侵攻(第二次高麗侵攻) |
| 11月26日、楊規(ヤン・ギュ)と李守和が興化鎮を死守 | |
| 12月、康兆(カン・ジョ)が殺害される | |
| 契丹が粛州を陥落させたが、西京の攻撃に失敗、東に撤退する | |
| 1011 | 1月、契丹は高麗の首都に侵攻し、宮殿、民家を焼き尽くす。顕宗は広州へ逃げる |
| 8月、高麗の和平交渉を受けて、契丹が撤退する | |
| 1012 | 2月、契丹の皇帝が入朝(皇帝の宮廷への出仕)を要求する |
| 6月、病を理由に入朝を断る | |
| 激怒した皇帝が高麗の興化、通州、龍州、鉄州、郭州、龜州の六城を占領するよう命じる | |
| 1013 | 3月、契丹の皇帝が六城の引き渡しを強く要求 |
| 1014 | 1月、新しい宮殿が完成する |
| 1016 | 5月、元成太后が欽(第9代王・徳宗)を出産する |
| 1018 | 7月、元成太后が亨(第10代王・靖宗)を出産する |
| 10月、第五次契丹の高麗侵攻、姜邯賛の活躍で高麗が勝利 | |
| 1019 | 1月、契丹の蕭遜寧が京城までわずか100里に迫る |
| 王は城外の民を収容して、敵に物資を与えないように周辺を焼き払う | |
| 敵の偵察兵300余名を全滅させる | |
| 2月、姜邯贊が契丹軍を待ち伏せして、生還者が数千人の大勝利を収める(亀州大捷) | |
| 12月、元恵太后が緒(第11代王・文宗)を出産する | |
| 1028 | 7月、元成王后が亡くなる |
| 1029 | 1月、千秋太后が亡くなる |
| 1031 | 4月、顕宗の体調が優れず、左僕射の李端に政務を任せる |
| 5月、顕宗が病気で亡くなる |
恭愍王の生涯(1330年~1374年)
恭愍王は反元政策で、当時、高麗を牛耳っていた奇皇后の兄・奇轍(キチョル)一派を粛清しますが、政策は道半ばで殺害され頓挫してしまいました。
<恭愍王が登場するドラマ>
・開国
・辛旽 高麗中興の功臣
・シンイ-信義-
・大風水
・鄭道伝
・開国
・辛旽 高麗中興の功臣
・シンイ-信義-
・大風水
・鄭道伝
<恭愍王の生涯と出来事>
| 年 | 出来事 |
| 1330 | 5月6日、父・忠粛王と母・恭元王后に間に生まれる |
| 1341 | 燕京(現在の北京)へ入朝して、元で生活する |
| 1349 | 10月、元の魏王女の魯国公主と結婚する |
| 1351 | 高麗第31代王として恭愍王が即位する |
| 1352 | 蒙古風の胡服弁髪令を廃止する |
| 1353 | 奇皇后の子・アユルシリダラが元の皇太子になる |
| 1356 | 5月、奇轍(キチョル)を殺害、奇氏一派を粛清する |
| 6月、元の年号(暦)・官制を廃止、元からの脱却を図る | |
| 7月、元の双城総管府を陥落させる | |
| 李子春と彼の息子李成桂が内部で高麗軍と内通して双城総管府の城門を開いた。 | |
| 1358 | 恭愍王と辛旽(シンドン)が出会う |
| 1365 | 2月、魯国公主が難産で亡くなる |
| 1366 | 辛旽は、親元派の特権階層が持っていた土地や奴婢を調べて、土地は元の所有者に返し、奴婢は開放する |
| 1368 | 中国で明朝が成立する |
| 1371 | 親元派の恨みをかって、辛旽が「反逆者」として殺害される |
| 1374 | 8月、恭愍王が親元派の宦官に殺される |
恭譲王の生涯(1345年~1394年)
恭譲王は高麗王朝最後の国王です。
しかし、恭譲王には国政を司る能力は無く、高麗王朝と朝鮮王朝の橋渡し役にすぎませんでした。
<恭譲王の生涯と出来事>
| 年 | 出来事 |
| 1345 | 父・王鈞と母・国大妃王氏の間にうまれる |
| 1389 | 昌王は正当な王位継承者でないとして廃位される |
| 恭譲王が第34代国王として即位する | |
| 昌王と父・禑王が処刑される | |
| 1392 | 恭譲王は李成桂に譲位、杆城に追放される |
| 1394 | 謀叛の計画があるとして、配流先で息子の王奭とともに殺害される |
| 高麗王室一族は、流刑先に向かう船を沈められて溺死する | |
| 高麗王朝の滅亡、朝鮮王朝が始まる |