高麗契丹戦争で高麗を守った顕宗とはどんな王だったのか?
本記事では、顕宗の家系図を軸に、彼の複雑な血縁関係、生涯、家族構成、さらに彼のドラマまでを徹底解説します
高麗王・顕宗の家系図|冷遇された不義の子

本図は当サイトが独自に作成した家系図です
<高麗王・顕宗の家系図>
顕宗は高麗初代・太祖の孫にあたり、父は太祖の第8子・王郁(ワン・ウク)、母は第5代王・景宗の王妃・献貞王后でした。このように、両親ともに太祖の血を引いていたため、家系図上は「王族中の王族」とも言えます。
しかし、両親の間に正式な婚姻関係はなく、宮廷外で密かに情を通じて結ばれた関係でした。このため顕宗は「不義の子」として扱われ、出家を強制されるなど、不遇な少年期を過ごしています。
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高麗史によると、「王は幼いころから聡明で、仁慈に満ちていた。成長してからは学問に励み、書道に秀でていた。また、詩文を好み、耳にしたことや目にしたことを忘れることがなかった。」と記録されています。
即位後の顕宗の行動には、仏教への強い信仰心と仏門で培われた精神力に支えられた、どんな苦難も打ち破る強固な意志と行動力が感じられます。
第8代高麗王
廟号:顕宗(ヒョンジョン)
姓・諱 :王詢(ワン・スン)
生年:992年7月1日
没年:1031年5月25日
享年:40歳
在位:1009年-1031年
不遇の幼少期|度重なる命の危機
幼くして両親を失った顕宗は国王・成宗に引き取られ王宮で育てられましたが、成宗が亡くなると、千秋太后は自らの子を王にするため、甥である顕宗を強制的に出家させ、何度も暗殺を試みました。顕宗は僧侶に守られ命を取り留め、この経験から仏教への信頼を深めたともいわれています。
康兆の乱と即位
1009年、西北面都巡検使の康兆がクーデターを起こし、千秋太后は流刑、穆宗は廃位後に殺害、金致陽の一派は全員斬首としました。
そして、康兆は、太祖の血を正統に継ぐ顕宗を国王として擁立します。
顕宗の仏教信仰と国家運営
12歳で出家した顕宗は仏教への深い信仰を持ち、僧侶を絶対的に信頼しており、即位後は智宗を王師に任命して政治や外交において助言を受けました。
仏教は顕宗にとって宗教を超えた政治の柱であり、王位の正当性を示す手段でもありました。父を追尊し、玄化寺を建立したのもその一環といえるでしょう。
契丹侵攻と亀州大捷|顕宗と姜邯賛の絆
1018年の高麗契丹戦争では、顕宗は姜邯賛を指揮官に任命し、迫りくる40万の契丹軍に対して自ら開京死守の決断をくだしました。
顕宗が開京死守を決断したことで契丹軍は開京攻略に失敗、撤退中に亀州で姜邯賛の率いる高麗軍に壊滅的な打撃を受けました。
この強固な意志が亀州の大勝利(亀州大捷)につながり、高麗は名実ともに契丹の属国ではなく、独立国家としての地位を守り抜きました。
戦後の内政改革
顕宗は高麗契丹戦争での経験から国の安定性を痛感して次の内製改革に取り組みました。
・軍事体制の整備
・経済の再建
中央集権化で王権を強化し、軍備を整備して外敵からの侵攻に対処できるようにしました。
また、戦争で荒廃した国土の復興として、農業政策の見直しや租税制度の整備を行い、国の基盤を安定化させました。
顕宗の最後
1031年4月に病で倒れた顕宗は、翌5月に病状が悪化し、太子を呼び寄せて後事を託した後、重光殿で亡くなりました。享年40歳、在位22年でした。
廟号は「顯宗」と称され、松岳の西麓に埋葬されて、その陵墓は「宣陵」と呼ばれています。
高麗王・顕宗の家族
高麗王で複数の王妃を持ったと考えられる王は多数いますが、史料から確実に複数の王妃を持ったと確認できるのは顕宗だけです。
(東洋学報 論説「高麗時代の婚姻形態について(著:豊島悠果)」より)
次の表は論説を参考に作成しています。
王妃と子供 | 生年-没年 | 備考 |
元貞王后 | 999-1018 | 成宗と文和王后金氏の娘 |
元和王后 | 不詳 | 成宗と楽浪郡大夫人崔氏の娘 |
・孝静公主 | 不詳 | |
・天寿殿主 | 不詳 | |
元成王后 | 不詳-1028 | 金殷傅の娘 |
・徳宗 | 1016-1034 | 第9代高麗王 |
・靖宗 | 1018-1046 | 第10代高麗王 |
・仁平王后 | 不詳 | 文宗の第1妃 |
・景粛公主 | 不詳 | |
元恵王后 | 不詳-1022 | 金殷傅の娘 |
・文宗 | 1019-1083 | 第11代高麗王 |
・孝思王后 | 不詳 | 徳宗の第3妃 |
・平壌公(王基) | 不詳 | 順宗の妃・貞懿王后の父 |
元容王后 | 不詳 | 王旭の子の敬章太子の娘 |
元平王后 | 不詳-1028 | 金殷傅の娘 |
・娘 | 不詳 |
顕宗の第3王妃・元成王后は第9代王・徳宗と第10代王・靖宗の二人の国王を生んでいます。
元恵王后は、後に第11代王となる文宗を生んでいますが、彼女は息子が王になったことで追尊されたと考えられ、論説には王妃として記載されていません。
元成王后、元恵王后とも伯父にあたる第6代王・成宗の娘です。
顕宗が登場するドラマ
顕宗が登場するドラマは多くありませんが、近年放送された「高麗契丹戦争」は、契丹の侵攻に立ち向かった顕宗と、その政治の師であった姜邯賛の活躍を描いています。
・千秋太后(2009年)
・高麗契丹戦争(2023年)
まとめ
高麗第8代王の顕宗は波乱の生い立ちを乗り越えて即位し、国を守り抜いた稀代の国王でした。
しかし、名将・姜邯賛とともに「亀州大捷」に代表されるような大勝利で、外敵の契丹から国を守った王として歴史に名を刻みました。
顕宗の治世は単なる王権の復興に留まらず、高麗の外交的な独立性を確保したという点で高く評価されています。強い精神力と決断力で数々の困難を克服し、高麗の独立を確保した功績は特筆に値します。