韓国朝鮮王朝の歴史をドラマを見るのに役立つ内容で年表に整理しました。
時代劇を見るときの参考にしてください。
不足の年代は随時、追加していく予定です。
日付は陰暦を採用しています。
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- 第1代王・太祖、第2代王・定宗、第3代王・太宗(1335年~1422年)
- 第4代王・世宗(1397年~1450年)
- 第5代王・文宗(1414年~1452年)
- 第6代王・端宗、第7代王・世祖(1441年~1468年)
- 第8代王・睿宗(1450年~1469年)
- 第9代王・成宗(1457年~1494年)
- 第10代王・燕山君(1476年~1506年)
- 第12代王・仁宗(1515年~1545年)
- 第13代王・明宗(1534年~1567年)
- 師任堂(1504年~1551年)
- 白光炫(1625年~1697年)
- 第14代王・宣祖(1552年~1608年)
- 第15代王・光海君(1575年~1641年)
- 第16代王・仁祖(1595年~1649年)
- 第17代王・孝宗(1619年~1659年)
- 第18代王・顕宗(1641年~1674年)
- 第20代王・景宗(1688年~1724年)
- 第22代王・正祖(1752年~1800年)
- 第23代王・純祖(1790年~1834年)
- 第24代王・憲宗(1827年~1849年)
- 第26代王・高宗(1852年~1919年)
- 第27代王・純宗(1874年~1926年)
- 李垠と妻・李方子(1897年~1989年)
第1代王・太祖、第2代王・定宗、第3代王・太宗(1335年~1422年)
朝鮮王朝を建国した初代王・太祖から朝鮮王朝の基礎を築いた第3代王・太宗までの年表です。
年 | 出来事 |
1335 | 李成桂が李子春と永興崔氏の間に生まれる |
1351 | 李成桂が韓卿の娘(神懿王后)と結婚する |
1354 | 長男の鎮安大君(李芳雨)が生まれる |
1355 | 李成桂が父と共に高麗朝廷に入朝し、恭愍王に謁見する |
1356 | 神徳王后が康允成の娘として黄海道谷山で生まれる |
5月、恭愍王が奇皇后の兄・奇轍(キ・チョル)を処刑する | |
7月、柳仁雨と李仁任が元が管轄する双城総管府を攻撃する | |
元朝に属していた李子春が恭愍王に内通、功績を立てて高麗に復帰する | |
1357 | 次男の定宗(李芳果)が生まれる |
1360 | 三男の益安大君(李芳毅)が生まれる |
李成桂の父・李子春が亡くなる | |
1361 | 李成桂が高麗の官吏になる |
10月、李成桂は朴義の乱を平定する | |
1362 | 1月、高麗へ侵入する紅巾軍と交戦、都の開京を奪還する |
2月、高麗に侵入した元の納哈出を撃退する | |
1364 | 四男の懐安大君(李芳幹)が生まれる |
李成桂は崔瑩らと共に国境近くで、元に寝返った高麗の反逆者・崔儒を撃退する | |
高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却する | |
2月、李成桂は女真族を討伐、和州以北の領土を奪還する | |
このときに文官として従軍したのが鄭夢周 | |
1367 | 五男の太宗(李芳遠)が生まれる |
不詳 | 六男の徳安大君が生まれる |
1369 | 辛旽(シンドン)が謀反の罪で流刑になる |
1370 | 1月、李成桂は東寧府を攻め、元の遼陽までも制圧する |
11月、李成桂は元の遼陽を制圧 | |
李成桂が康允成の娘(神徳王后)と政略結婚をする | |
1371 | 辛旽が処刑され、崔瑩(チェ・ヨン)が復職する |
高麗の王・恭愍王が子供(禑王)の存在を公表する | |
1372 | 恭愍王、子弟衛(チャジェイ)を設置する |
1374 | 7月、済州道で乱が起き、崔瑩が鎮圧する |
9月、恭愍王が宦官に殺害され、禑王が11歳で高麗32代王に即位する | |
1379 | 禑王が正妃を迎える(当時の権力者・李仁任の娘) |
1380 | 1月、恭愍王の母(大妃)が亡くなる |
9月、禑王と正妃との間に息子が誕生(後の高麗33代王・昌王) | |
9月、李成桂は荒山で首領・阿只抜都が率いる倭寇を撃退する | |
1381 | 神徳王后に長男の李芳蕃が生まれる |
1382 | 神徳王后に次男の李芳碩が生まれる |
1383 | 李芳遠が17歳で高麗朝の科挙に合格して官職(密直司代言)に就く |
鄭道伝が李成桂を訪ねる | |
1388 | 崔瑩と李成桂が手を組んで、李仁任(イ・イニム)を流刑 |
李仁任一派を粛清する | |
3月、崔瑩の庶女(寧妃崔氏)が禑王の妃となる | |
4月、崔瑩は総司令官となって北部地域へと遠征を開始する | |
河崙は崔塋の遼東遠征に反対して、楊州に流刑となる | |
5月、威化島回軍、李成桂が王命に背いて開京へと兵を回軍させる | |
6月、李成桂が開京を占領する | |
崔瑩は王をそそのかした罪で京畿道へ流刑にされる | |
禑王は廃位されて流刑になり、息子の昌王(当時8才)が王位に就く | |
12月、崔瑩が処刑される(享年73才) | |
李芳遠が正朝使の書状官として中国の明を訪問する | |
1389 | 12月、李成桂は昌王を廃位させ、恭譲王(高麗第34代王)を即位させる |
同時に昌王と流刑中の父・禑王は処刑される | |
1390 | 5月、李成桂が李穡 (イセク)一派を追放する |
1391 | 5月、科田法を制定。旧勢力の土地を没収、経済基盤を壊滅させる |
9月、郷妻の神懿王后韓氏が亡くなる | |
1392 | 4月、李成桂が狩猟中に落馬して負傷 |
療養中に、鄭夢周が李成桂一派の除去を企てる | |
危機を察した康氏は、地方に避難していた李芳遠を開京に呼び戻す | |
李芳遠が鄭夢周を暗殺する | |
李成桂は勝手に鄭夢周を殺した李芳遠に激怒する | |
7月、恭譲王を廃位し、李成桂が国王として即位する(太祖) | |
明に使節を送り、国号を選んでもらって「朝鮮」となる | |
8月、康氏も王后の地位に就き顕妃と号した。(朝鮮王朝最初の王妃) | |
8月20日、李芳碩を王世子に冊立する | |
1393 | 明により李成桂が権知高麗国事(高麗知事代理)に冊封される |
王位に就いた1392年7月17日から1393年2月14日まで李成桂は形式上では高麗の王 | |
1393 | 2月14日、朝鮮を国号とし、李成桂は正式に朝鮮王となる |
1393 | 世子(李芳碩)の世子嬪・柳氏と内侍の李萬の密通が発覚 |
李萬は処刑、柳氏は廃位され追い出される | |
1394 | 2番目の世子嬪として沈氏を迎える |
漢陽(漢城、現ソウル)に遷都 | |
三陟に追放していた恭譲王とその子を謀反の罪で殺害する | |
李成桂により高麗王家一族の皆殺しが行なわれる | |
高麗王朝は完全に滅亡した | |
6月、李芳遠が南在、趙胖とともに使臣として明に行き、11月、成果を上げて帰国する | |
1396 | 8月13日、神徳王后が体調を崩し、息子の行く末を案じながら亡くなる |
遺体は漢城府中心部の聚賢坊(現・ソウル市中区貞洞)に葬られ、「貞陵」とされた 神徳王后の陵墓は最高の格式で作られた |
|
1397 | 神徳王后の供養のための興天寺も建てる |
1398 | 8月26日、第一次王子の乱 |
李芳遠が私兵を動員して鄭道伝、李芳碩などを斬殺して政権を握る | |
南誾、娘婿、李芳蕃なども殺害される | |
太祖は太宗に深い憎悪の念を抱き、親子関係は最悪の状態となる | |
河崙が定社功臣一等に冊禄されて晉山君に封ぜられる | |
10月14日、太祖が退位 | |
次男の李芳果が第2代王(定宗)となる | |
明の皇帝・太祖が逝去。河崙が陳慰兼進香使として派遣され、定宗の王位継承を承認させる | |
1399 | 定宗が漢陽の運気の悪さから、首都を漢陽から開京に遷都する |
1400 | 1月、第二次王子の乱 |
私兵の廃止や論功行賞の不満から四男の懐安君(李芳幹)が反乱を起こす | |
李芳遠が鎮圧、王世子となる | |
李成桂は自分の息子達の争いに嫌気がさし咸興に引きこもってしまう | |
身の危険を感じていた定宗が譲位する | |
11月13日、李芳遠が第3代王となる(太宗) | |
河崙が佐命功臣一等に冊禄される。王権強化に貢献 | |
国制整備と王権強化を図る。私兵を廃止して国の軍備を強化する | |
議政府を最高機関とし、六曹をその下に置く朝廷の組織を構築する | |
1401 | 申聞鼓(シンムンゴ)という制度を作る |
李氏朝鮮最初の法貨として、楮貨を発行する | |
1402 | 趙思義(神徳王后の親戚)の乱が起こる |
李成桂が太宗と和解し、開京に戻る | |
李成桂が国璽を太宗に授け正式に朝鮮王として認める | |
李成桂は政治には関心を持たず念仏三昧の生活を送る | |
河崙を明の永楽帝の即位式に祝賀使節として派遣、太宗の国王承認を要請する | |
1403 | 明の永楽帝から朝鮮国王として冊封を受ける |
鋳字所を設立、金属活字による書籍の印刷に成功する | |
1404 | 太宗は長女である貞順公主の義父である李居易とその息子の李佇を逮捕、3年前にもう結審された罪目でまた流刑とする |
太宗の長男・譲寧大君(李褆)を王世子に冊立する | |
1405 | 定宗が開京に還都させた首都を再び漢陽へ移転する |
1406 | 寺院の勢力を減退させるために特権を大幅に削減させる |
行政法典である「経済六典」に「続六典」追補し、中央集権化を押し進める | |
1407 | 元敬王后の弟である閔無咎(ミン・ムグ)と閔無疾(ミン・ムジル)兄弟を賜死させる |
1408 | 李成桂(太祖)が昌徳宮にて74歳で亡くなる |
太宗は神徳王后を降格し、現在のソウル貞洞にあった陵墓を郊外に移す 祭壇を徹底に破壊、墓石は橋の材料として使用する |
|
河崙が春秋館領事として「太祖実録」の編纂を指揮する | |
1410 | 元敬王后の弟の閔無咎(ミン・ムヒュル)と閔無疾(ミン・ムフェ)が流刑になる |
1415 | 閔無咎と閔無疾が流刑地で賜死させられる |
元敬王后との関係が更に悪化する | |
1416 | 元敬王后の弟の閔無恤 閔無悔が賜死させられる |
11月、河崙が70歳で亡くなる | |
1417 | 李叔蕃(イ・スクボン)を慶尚道咸陽に流刑とする |
譲寧大君が於里と密通した罪で宮廷を追い出される | |
1418 | 2月4日、四男の誠寧大君が天然痘で亡くなる |
6月、譲寧大君を廃位して、三男である忠寧大君(世宗)を王世子に冊封する | |
8月11日、太宗が譲位、世宗が第4代王に即位する | |
太宗は世宗に王位を譲って上王となるが、軍事権はなおも握り続けた | |
11月、姜尚仁の獄事(軍事を上王に報告しなかった事件)が起こり、沈温に濡れ衣を着せる | |
12月、太宗は当時、明に使臣として赴き、帰国途中であった世子嬪(昭憲王后)の父・沈温を逮捕して賜死させる | |
1419 | 6月20日、己亥東征(応永の外寇)、対馬への軍事侵攻する |
9月26日、定宗が63歳で亡くなる | |
1420 | 7月10日、元敬王后が56歳で亡くなる |
1422 | 5月10日、太宗が寿康宮にて病死する。享年55歳 |
1669 | 神徳王后が第18代王・顕宗によって妃としての地位が回復される |
王妃としての陵墓・貞陵が再建される |
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第4代王・世宗(1397年~1450年)
世宗は朝鮮王朝で最高の名君と呼ばれている王です。
そして、世宗の時代は科学技術を中心とした朝鮮文化の黄金時代とも言われています。
年 | 出来事 |
1397 | 第3代国王太宗の三男として生まれる |
1408 | 2月11日、忠寧君に封じられる |
2月16日、沈氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚する | |
1412 | 5月3日、忠寧君が大君(忠寧大君)に進封される |
1418 | 6月、譲寧大君が世子を剥奪される |
忠寧大君(世宗)が世子に冊封される | |
9月9日、太宗が忠寧大君(世宗)に譲位する | |
太宗は軍事権をもって上王となる | |
11月、姜尚仁の獄事 | |
12月、義父・沈温が太宗に対する反逆・不敬の罪で処刑される | |
世子嬪(昭憲王后)の母親と兄弟が公奴婢にされる | |
1419 | 6月20日、太宗の主導で対馬征伐が行われる(己亥東征) |
1420 | 王の政策諮問機関の集賢殿を設置する |
7月、母親の元敬王后が亡くなる | |
1421 | 蔣英実が尹士雄、崔天衢とともに明に行き、天文機器を調査する |
1422 | 太宗が亡くなり、世宗の親政が始まる |
1423 | 政治の実権を掌握した世宗が朝鮮との通交関係の回復させる |
官婢の蔣英実が尙衣院の別坐(従六品)に任命される | |
1424 | 世宗の長女・貞昭公主が天然痘で亡くなる |
蔣英実が水時計を完成させ、その功績で行司直(正五品)に昇進する | |
1425 | 朝鮮通宝を鋳造、貨幣経済の浸透を試みる |
1426 | 昭憲王后の母・安氏が奴婢から解放され復権する |
塩浦、富山浦、乃而浦の三浦を開港する | |
1429 | 鄭招らが「農事直説」の編纂を開始する |
1431 | 黄喜(ファンヒ)が領議政に就任する |
1432 | 王立天文台である簡儀台を設置する |
孟思誠、尹淮らが「新撰八道地理誌」を編纂する | |
1433 | 金宗瑞が咸吉道都観察使に任命され、六鎮開拓が始まる |
1434 | 金宗端が北方に六鎮を開設する |
甲寅字を鋳造する | |
「続六典」の編纂を終える | |
1436 | 貢法詳定所を設置して、田税制度を定める |
六曹直啓制を議政府署事制に変更する | |
3月12日、芸文館大堤学の尹淮(ユン・フェ)が57歳で亡くなる | |
1441 | 蔣英実が世界最初の雨量計(測雨器)を発明する |
1442 | 王の輿が破損、制作監督の蔣英実が不敬罪に問われる |
世宗の病状が悪化、世子(文宗)に摂政を命じる | |
1443 | ハングルを創製する |
1444 | 崔萬理が文字創製に対する反対上訴を提出する |
11月24日、昭憲王后の母・三韓国大夫人安氏が亡くなる | |
12月8日、五男の広平大君が麻疹で亡くなる | |
1445 | 1月16日、七男の平原大君が痘瘡で亡くなる |
1446 | 3月24日、39年連れ添った昭憲王后が亡くなる |
10月9日、訓民正音(ハングル)を公布する | |
1448 | 李珦(文宗)の一人息子・李弘暐(端宗)を世孫に冊立する |
1449 | 金宗瑞が女真族を制圧、六鎮(軍事拠点)を完成させる。国境線を豆満江まで拡大する |
1450 | 2月17日、世宗は54歳で逝去、献陵に埋葬される |
1451 | 文宗が即位する |
沈温の復権が行われ、子孫は官職に就くことが許可される | |
1469 | 昭憲王后とともに英陵に移葬される |
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第5代王・文宗(1414年~1452年)
文宗は世宗の長男として生まれ、第5代王となりますが、目立った功績もなく在位2年で亡くなってしまいます。
年 | 出来事 |
1414 | 世宗と昭憲王后の間に長男として生まれる |
1421 | 世宗の長男・文宗が8歳で王世子となる |
1427 | 4歳年上の徽嬪金氏が世子嬪となる |
1428 | 世宗の三男・李瑢(イ・ヨン)が安平大君に封じられる |
1429 | 7月、徽嬪金氏が廃位される |
10月、純嬪奉氏が世子嬪となる | |
1431 | 世宗は世子に子供ができないことを心配して、良家の3人の娘(権氏・洪氏・鄭氏)を世子の側室に選ぶ |
1433 | 権氏(後の顕徳王后)が女の子(敬恵公主の姉)を生むが早世 |
世宗の六男・李瑜(イ・ユ)が錦城大君に封じられる | |
1434 | 金宗瑞が女真族の来襲に備えて北方に六鎮(六つの駐屯軍)を設置する |
1436 | 権氏(後の顕徳王后)に敬恵公主が生まれる |
10月26日、純嬪奉氏が廃位される | |
12月28日、権氏(後の顕徳王后)が三番目の世子嬪に冊封される | |
1437 | 世宗の健康状態が悪化(糖尿病)、世子に摂政を譲渡しようとするが、臣下に反対される |
世宗が六曹直哲制度を議政府署事制に移行する | |
1438 | 首陽大君の長男・懿敬世子(桃源君)が生まれる |
1441 | 7月23日、文宗と顕徳王后に端宗が生まれる |
翌日、母の顕徳王后が亡くなる | |
1442 | 臣下の反対を押しのけ、文宗に摂政を任せる |
1446 | 3月24日、母の昭憲王后が亡くなる |
1450 | 2月17日、父の世宗が54歳で亡くなる |
2月22日、第5代王・文宗として即位する | |
1452 | 5月14日、文宗が在位2年、39歳で亡くなる |
第6代王・端宗、第7代王・世祖(1441年~1468年)
この時代の大事件、癸酉靖難を扱った代表的なドラマには「インス大妃」「王女の男」があります。
年代 | 出来事 |
1441 | 7月23日、文宗(当時世子)に長男の端宗が生まれる |
翌日、母の顕徳王后が亡くなる。敬恵公主6歳 | |
敬恵王女と端宗は祖父・世宗の側室・恵嬪楊氏に養育される | |
1441 | 首陽大君の長女・懿淑公主が生まれる |
1442 | 世宗が糖尿病で健康状態が悪かったため、世子の文宗が摂政として政務に携わる |
1443 | 敬恵王女の夫となる鄭悰の父・鄭忠敬が亡くなる |
1445 | 世宗の次男・李瑈(イ・ユ)が首陽大君に冊封される |
1446 | 3月24日、世宗の王妃・昭憲王后が亡くなる |
1448 | 端宗が世孫に冊封される(8歳) |
1450 | 1月1日、首陽大君の次男・海陽大君(睿宗)が生まれる |
1月24日、敬恵王女(15歳)は鄭忠敬の息子の鄭悰と結婚する | |
父の文宗がまだ世子のため、公主ではなく平昌郡主と称される | |
鄭悰は寧陽尉(ヨンヤンウィ)に冊封される | |
敬恵王女は宮廷の近くに準備された大きな屋敷で暮らし始める | |
1450 | 2月17日世宗が亡くなる |
2月22日、世子が第5代国王(文宗)として即位する | |
端宗が世子に冊封される(10歳) | |
文宗の娘は平昌郡主から敬恵公主となる | |
首陽大君の長男・桃源君が韓確の娘(仁粋大妃)と結婚する | |
1452 | 5月14日、文宗が亡くなる |
5月14日、世孫が第6代国王(端宗)として即位する | |
首陽大君と金宗端が激しく対立する | |
9月、首陽大君自ら謝恩使として明に赴く(王位への野心隠し) | |
首陽大君は同行した申叔舟や集賢殿の鄭麟趾、権擥などを傘下に加える | |
1453 | 春、首陽大君が明から帰国する |
10月10日、癸酉靖難が起こる(首陽大君が譲寧大君、申叔舟、権擥、韓明澮らと結託) | |
首陽大君に金宗瑞が息子とともに惨殺される | |
皇甫仁らの主要な大臣たちは宮廷に呼ばれ一挙に殺害される(韓明澮の殺生簿) | |
端宗は敬恵公主の家で寝泊まりしていた | |
安平大君(王族で首陽大君に対抗)は江華島に流刑になった後、賜死させられる | |
10月11日、首陽大君は領議政(領議政府事)になる | |
1454 | 1月22日、定順王后が端宗の王妃になる(15歳) |
桃源君と仁粋大妃の間に長男・月山大君(李婷)が生まれる | |
1455 | 錦城大君と鄭悰が濡れ衣を着せられて流刑を命じられる |
鄭悰は敬恵公主の病気を口実に流刑地から戻される | |
錦城大君は李甫欽(イ・ボフム)府使が統治する順興府へ流刑となる | |
後に、錦城大君と李甫欽は端宗復権で手を握る | |
6月11日、端宗が譲位、名ばかりの「上王」に据えられる | |
同日、首陽大君が第7代国王(世祖)として即位する | |
7月、端宗の王妃・定順王后は懿徳大妃に封ぜられる | |
1456 | 6月に端宗復位計画が仲間の金礩(キムジル)の裏切りで発覚(死六臣事件) |
「死六臣」と呼ばれる集賢殿の学者たちが処刑される | |
関連して処刑された者は70余名に上る | |
鄭悰は死罪を逃れ、流刑となる | |
このときは、敬恵公主も同行し、夫と流刑生活を共にする | |
敬恵公主は公主の身分を剥奪される(「鄭悰の妻」と記録されている) | |
敬恵公主夫婦は通津、光州と流刑地を転々とする | |
流刑地で敬恵公主と鄭悰の間に息子の鄭眉壽が生まれる | |
集賢殿が廃止される | |
7月7日、顕徳王后の父・権専が庶人に降格となる | |
1457 | 6月21日、上王から魯山君(庶人)に降格の上、江原道の寧越に流刑となる |
6月26日、端宗の母・顕徳王后が庶人に降格となる | |
端宗の妃・定順王后も夫人に降格となる | |
定順王后の父・宋玹寿が端宗の復位を図ったとして処刑される |
|
端宗は後に平民に降格されている | |
6月27日、錦城大君の端宗復権運動が奴婢の密告により発覚する | |
錦城大君は逮捕され、協力者の順興府使・李甫欽は処刑される | |
7月30日、懿敬世子(桃源君)と仁粋大妃の間に次男・成宗(李娎)が生まれる | |
8月2日、順興府を反逆の村として廃止、民家は破壊され、住民は虐殺される | |
9月2日、世祖の長男・懿敬世子(桃源君)が病死 | |
9月、錦城大君が配流先で賜死となる | |
10月24日、平民に降格された端宗が配流先で賜死となる。享年17歳。 | |
端宗の遺体は川に投げ込まれる | |
端宗の妃・定順王后は尼寺正業院で暮す | |
11月2日、讓寧大君が和義君、漢南君、永豐君、鄭悰の処罰を進言するが、世祖は拒否 | |
1460 | 国の基本法典「経国大典」の編集が開始される |
1461 | 鄭悰が僧侶ソンタンたちと謀反を企てたことが発覚 |
10月20日、鄭悰は陵遅處斬(ヌンジチョチャム)の刑で処刑される | |
このとき、敬恵公主は妊娠中(娘)だった | |
10月23日、敬恵公主が光州より連れ戻される | |
12月14日、臣下が敬恵公主とその息子に連座を進言するが、貞熹王后の猛反対により世祖は敬恵公主と息子の処罰を拒否する。 | |
鄭悰の死後、敬恵公主は尼となったとの記録もある | |
1462 | 可哀想に思った世祖は敬恵公主に屋敷、財産、奴婢を与える |
敬恵公主の身分が回復される(以降、「敬惠公主」の名前での記録) | |
敬恵公主の子供に対しても、世祖は大罪人の扱いを禁じた | |
1466 | 韓明澮が領議政に就任する |
1467 | 李施愛(イシエ)の乱が勃発する |
1468 | 9月7日に世祖は次男の海陽大君(第8代王・睿宗)に王位を譲る |
9月8日、世祖が52歳で逝去 | |
1469 | 「経国大典」が完成する |
1474 | 12月30日、敬恵公主が38歳で逝去 |
1477 | 世祖の長女・懿淑公主が享年37歳で亡くなる |
1483 | 3月30日、世祖の妃・貞熹王后が享年66歳で亡くなる |
1513年3月12日、中宗が端宗の母・顕徳王后の名誉が回復する
1698年、粛宗が端宗の名誉を回復、廟号を端宗、陵号を荘陵とした
1699年7月15日、粛宗が顕徳王后の父・権専の名誉を回復する
第8代王・睿宗(1450年~1469年)
睿宗は在位1年2ヶ月で亡くなった、仁宗の8ヶ月に次ぐ、短命の王でした。
年月 | 出来事 |
1450 | 睿宗は世祖と貞熹王后の次男として生まれる |
1457 | 兄の李暲(懿敬世子)が病死する |
兄に代わって王世子となる | |
1460 | 韓明澮の娘(章順王后)と結婚、世子嬪をむかえる |
1461 | 李霬(仁城大君)が生まれる |
12歳で父親になるが、妻(章順王后)が産後に亡くなる | |
1462 | 世子嬪(後の安順王后)が選ばれて入宮する |
1466 | 承命代理として世祖を補佐する |
1468 | 9月7日、世祖は海陽大君(後の睿宗)に王位を譲って上王となる |
海陽大君が19歳で第8代王・睿宗として即位する | |
若いため、貞熹王后による垂簾聴政が行われる | |
1468 | 9月8日、父の世祖が亡くなる |
1468 | 南怡の謀叛事件が起こる |
1469 | 閔粋史獄が起こる |
12月31日、19歳で睿宗が亡くなる |
第9代王・成宗(1457年~1494年)
年 | 出来事 |
1457 | 7月30日、成宗が懿敬世子と世子嬪(仁粋大妃)の間に生まれる |
9月2日、父の懿敬世子が病死する | |
10月24日、端宗が流配先で賜死させられる | |
1461 | 5歳の時に者山君に封ぜられる |
1467 | 1月12日、韓明澮の次女(恭恵王后)と結婚する |
1468 | 者乙山君に改封される |
9月7日、世祖は譲位、海陽大君が第8代王に即位(睿宗) | |
世祖は上王となるが、翌日、亡くなる | |
7月17日、臨瀛大君の息子・亀城君が28歳で領議政に任命される | |
1469 | 12月31日、睿宗が19歳で逝去。在位1年2ヶ月 |
祖母・慈聖大妃の命によって第9代国王として即位(成宗) | |
1470 | 亀城君が流配になる |
1473 | 恭恵王后が病にかかり療養のため実家に戻る |
廃妃尹氏(斉献王后)が側室に選ばれる(淑儀) | |
後の王妃・貞顕王后も側室に選ばれる(淑儀) | |
恭恵王后が王宮に戻るが12月に再発する | |
1474 | 「経国大典」を完成・頒布 |
4月15日、王妃・恭恵王后が亡くなる | |
1476 | 親政を開始する |
元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止して決裁権を取り戻す | |
8月9日、周囲の反対を押し切って妊娠中の廃妃尹氏を王妃にする | |
11月7日、廃妃尹氏との間に李㦕(燕山君)が生まれる | |
1477 | 廃妃尹氏の気の強い性格が次第に目だってくる |
1479 | 1月28日、亀城君が流配地で亡くなる(39歳) |
成宗の顔を引っ掻く不敬により廃妃尹氏を王妃から廃位、嬪に降格する | |
1480 | 11月、貞顕王后が王妃になる |
1482 | 廃妃尹氏を支持していた任士洪を筆頭とした功臣勢力を左遷 |
新進勢力を果敢に登用することで士林勢力の政治的基盤を作った | |
8月16日、謹慎中の廃妃尹氏が偽りの報告で賜死を命じられる | |
1488 | 3月5日、側室・貞顕王后との間に李懌(中宗)が生まれる |
1494 | 12月24日、38歳にて逝去 |
第10代王・燕山君(1476年~1506年)
燕山君は朝鮮史上最悪の暴君と言われる王でした。
年 | 出来事 |
1474 | 成宗の最初の王妃・恭恵王后が亡くなる |
1476 | 8月9日、燕山君の母・廃妃尹氏(斉献王后)が王妃になる |
11月7日、成宗と廃妃尹氏の長男として生まれる | |
1479 | 廃妃尹氏がに廃位、嬪に降格される |
1482 | 廃妃尹氏が賜死となる。燕山君は7歳 |
1483 | 8歳で王世子に冊封される |
1494 | 12月24日、成宗が亡くなる |
12月29日、燕山君が19歳で第10代王に即位する | |
1498 | 戌午士禍(ムオサファ)が起こる |
成宗実録の記載をめぐり、勲旧派が士林派を弾圧した事件 | |
次第に独裁者となり、全土から女性を集めて宮廷で享楽にふける | |
諫言する臣下はことごとく残虐な方法で処刑する | |
1504 | 甲子士禍(カプチャサファ)が起こる |
生母廃妃尹氏の賜死に関係した者を捕らえて処刑した事件 | |
1506 | 9月2日、中宗反正が起こり、燕山君は廃位され、江華島に流刑となる |
11月6日、燕山君が流配地で亡くなる。享年31歳 |
第12代王・仁宗(1515年~1545年)
仁宗は朝鮮王朝に最も在位期間の短い王でした。
即位後は、病弱のため、まともに政務を務めることができませんでした。
また、自分の息子を王位に付けたい文定王后により何度も殺されかけたと言われています。
年月 | 出来事 |
1515 | 2月25日、中宗と2番目の妃・章敬王后の長男として生まれる |
3月2日、母の章敬王后が産後6日に25歳で亡くなる | |
1517 | 揀択で選ばれた尹之任の娘(文定王后)が17歳で義母となる |
1520 | 6歳で王世子に冊立される |
姉の孝恵公主が金安老の次男・金禧と結婚する | |
1522 | 8歳で成均館に入学して儒学を修める |
1524 | 朴墉の娘(仁聖王后)と結婚する |
1531 | 姉の孝恵公主が亡くなる |
1534 | 文定王后が慶源大君を生む(義弟) |
1544 | 11月、中宗が逝去すると、仁宗が第12代王として即位する |
文定王后が王大妃となる | |
1545 | 8月8日、仁宗が即位から8ヶ月で亡くなる |
慶源大君が12歳で即位して明宗となる | |
文定王后は大王大妃に転じ、後見として垂簾聴政を行う |
第13代王・明宗(1534年~1567年)
明宗は母親の文定王后に実権を握られ、自分の政治を行うことができなかった王です。
年月 | 出来事 |
1534 | 5月22日、中宗と文定王后の間に生まれる |
1544 | 世子だった峘(明宗)と沈鋼の娘(仁順王后)が結婚する |
明宗11歳、仁順王后13歳 | |
1544 | 11月、中宗が逝去すると、仁宗が即位する |
文定王后が王大妃となる | |
峘(明宗)が慶源大君に冊封される | |
1545 | 7月に仁宗が亡くなり、12歳で第13代国王・明宗として即位する |
まだ、幼かったため、母親の文定王后が代理で政務を行う(垂簾聴政) | |
乙巳士禍(ウルササファ)で先代仁宗の外戚と重臣が粛清される | |
1551 | 仁順王后との間に順懐世子が生まれる |
1555 | 5月、乙卯倭変。倭寇が全羅道を陥落させる |
1559 | 白丁の林巨正が反乱を起こす |
1563 | 息子の順懐世子が亡くなる。享年13歳 |
1565 | 文定大妃が亡くなる |
明宗は尹元衡の官職を剥奪、朝廷から追放する | |
1567 | 明宗が亡くなる。享年34歳 |
徳興君の三男であった河城君を養子として、第14代王宣祖として即位させる | |
仁順王后が大妃となり、15歳の宣祖に代わり垂簾聴政を行う | |
1575 | 仁順王后が亡くなる。享年44歳 |
師任堂(1504年~1551年)
師任堂(サイムダン)は 中宗の時代を生きた女流書画家で、大儒学者である李栗谷の母親でした。
年月 | 出来事 |
1504 | 師任堂が申命和の次女として生まれる |
1510 | 7歳のときに母方の祖父が絵を学ばせる |
その後、儒教の経典、古典を学ぶ | |
1516 | 申命和が41歳で科拳(進士)に合格する |
1519 | 己卯士禍が起こる。申命和は難を逃れ、江陵に戻る |
1522 | 師任堂が19歳のときに李元秀(イ・ウォンス)と結婚する |
父親の申命和が亡くなる | |
1524 | 三年の喪に服した後に姑の家で婚礼を挙げる |
師任堂が長男・李璿(イソン)を出産する | |
以降、夫の赴任先を転々として暮らす | |
1529 | 師任堂が長女(梅窓)を出産する |
不詳 | 次男の李璠(イボン)を出産する |
不詳 | 次女を出産する |
1536 | 江陵の実家(烏竹軒)で三男・李珥(イイ)を出産する |
不詳 | 三女を出産する |
1541 | 師任堂が38歳の時に夫の実家(寿進坊)で姑と暮らす |
1542 | 四男の李瑀(イウ)を出産 |
1550 | 師任堂の夫が水運判官に任命される |
1551 | 春から三清洞で暮らし始める |
1551 | 5月17日、師任堂は48歳で病死 |
白光炫(1625年~1697年)
白光炫(ペク・クァンヒョン)は煮沸消毒した鍼による治療で医術を飛躍的に向上させた医官でした。
顕宗から粛宗の時代に活躍しています。
年月日 | 出来事 |
1625 | 父・白哲明の次男として生まれる |
不詳 | 軍隊の羽林衛に入る |
落馬の大怪我がキッカケで医師を目指す | |
馬医として医術を学ぶ | |
人の腫れ物を治療して評判となる | |
1663 | 典医監の提調の推薦で治腫教授になる |
李相國に推薦されて内医院に入る | |
1670 | 顕宗の治療に携わる(8月16日実録) |
1672 | 仁宣王后(大妃)の腫れ物を切開して治療する |
1684 | 康翎県監その後、抱川県監に任命される |
1691 | 知中樞府事(正二品相当) |
1692 | 崇禄大夫(正一品相当) |
1695 | 領敦寧府事の尹趾完(ユン・ジワン)を治療(12月9日実録) |
1696 | 5月景宗の王妃・端懿王后の腹痛を治療する |
1697 | 突然、吐血して亡くなる |
第14代王・宣祖(1552年~1608年)
宣祖は秀吉の明の征服を目指す朝鮮侵攻により、王妃、王子、官僚を連れて義州まで避難するという戦乱に悩まされた王でした。
年月日 | 出来事 |
1552 | 11月11日、第11代国王・中宗と側室・昌嬪安氏の三番目の息子として生まれる |
1567 | 叔父の明宗が亡くなり、16歳で第14代国王・宣祖として即位する |
義母の仁順王后が代理で政治を行う(垂簾聴政) | |
1568 | 宣祖が親政を開始する |
1592 | 4月、壬辰倭乱の勃発 |
日本の豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮侵攻を開始する | |
4月14日に、朝鮮に上陸した小西行長と宗義智の第一軍が釜山城を陥落させる | |
加藤清正の第二軍、黒田長政の第三軍から第九軍まで16万の軍隊が朝鮮に侵攻する | |
4月29日、宣祖が王妃、側室、光海君、信城君、定遠君と官僚を連れて避難を開始 | |
怒った民衆が暴動を起こし、景福宮、昌徳宮、昌慶宮が焼失する | |
5月2日、第一軍と第二軍が漢城を陥落させる | |
第一軍は平壌に、第二軍は東北の咸鏡道、第三軍は黄海道まで北進する | |
加藤清正の第二軍に臨海君と順和君の2王子が捕らえられる | |
宣祖と官僚たちは義州まで避難、光海君は咸鏡道に避難する | |
光海君を世子に指名し、分朝体制として、明に救援を求める | |
1593 | 1月、李如松を提督とする明軍が漢城を奪還する |
4月、明と日本が講和交渉を開始する | |
講和条約により、臨海君と順和君の2王子が釈放される | |
日本軍は漢城から釜山周辺まで撤退、明軍は開城から遼東まで撤退する | |
宣祖が漢城への復帰を果たす | |
1596 | 9月、丁酉倭乱の勃発 |
秀吉が明の国書に激怒、講和交渉が決裂する | |
1597 | 2月、日本軍は再び、朝鮮への14万の兵力で侵攻を開始する |
朝鮮南部で朝鮮と明の連合軍が衝突 | |
1598 | 8月18日、秀吉が亡くなる |
10月15日、日本の五大老が連署で撤兵を指示する | |
11月25日、 小西行長らが釜山より帰国して撤兵を完了する | |
1600 | 9月27日 朝鮮駐留の明軍が撤兵する |
1602 | 懿仁王后が逝去、宣祖は仁穆王后を継妃に迎える |
1603 | 仁穆王后との間に貞明公主が生まれる |
1606 | 宣祖に待望の嫡子・永昌大君が生まれる |
1608 | 宣祖が56歳で亡くなる |
第15代王・光海君(1575年~1641年)
光海君は側室の次男から王になった人物です。
幼い弟を殺害し、義理の母(大妃)を幽閉、多くの政敵を粛清したことから暴君と言われています。
年月 | 出来事 |
1575 | 4月26日、宣祖と側室・恭嬪金氏の次男として生まれる |
1592 | 4月、壬辰倭乱が発生。豊臣秀吉が領土拡張を目的に朝鮮に侵攻する |
宣祖が避難した北道の義州を本朝、光海君が避難した咸鏡道を分朝とする分朝体制とする | |
光海君を王世子に指名して、朝廷の一部(分朝)を任せる | |
1594 | 明は次男であることを理由に光海君の世子冊封の要請を拒絶する |
1597 | 1月、丁酉倭乱(丁酉再乱)が発生。日本軍が2回目の朝鮮侵攻を行う |
2回の倭乱を通して、光海君は民心の安定、兵糧、兵器の調達などで功績を上げる | |
1598 | 秀吉が亡くなり日本軍が撤兵する |
1602 | 懿仁王后が逝去、宣祖は仁穆王后を継妃に迎える |
1603 | 仁穆王后が貞明公主を出産する |
1606 | 仁穆王后に王子(永昌大君)が生まれる |
1608 | 宣祖が亡くなり、光海君が第15代王として即位する |
永昌大君は庶人に降格、江華島に流刑とされる | |
仁穆王后と貞明公主は幽閉される | |
臨海君が流刑にされる | |
1609 | 臨海君が殺害される |
己酉約条、日本の江戸幕府と和議を結ぶ | |
1614 | 永昌大君が流刑地で殺害される。享年9歳 |
仁穆王后は大妃の地位を廃され側室の身分に降格 | |
1619 | 明に送った後金討伐軍が後金軍に大敗する(サルフの戦い) |
1623 | 3月12日、西人派を中心とした勢力が宮廷クーデター(仁祖反正)を起こす |
3月13日、光海君は廃位され、江華島へ追放される | |
綾陽君が第16代王・仁祖として即位する | |
西人派政権は大北派を粛清し、外交政策を崇明排清に転換する | |
1641 | 光海君が転流された済州島で死去する。享年66歳 |
第16代王・仁祖(1595年~1649年)
仁祖反正で第16代王・仁祖になった綾陽君は、後金(後の清)に侵略され降伏、土下座の上、王子を人質に取られる屈辱を味わいます。
それ以降、朝鮮は清の冊封国となっています。
つまり、清を宗主国(君主)、朝鮮を従属国(臣下)とする君臣関係となりました。
従属国は多額の朝貢や清に従う軍役の義務を負います。
また、正式に国王や世子になるには、宗主国・清の了解(冊封)を取る必要がありました。
年月日 | 出来事 |
1595 | 11月7日、定遠君の長男として、逃亡先の海州で生まれる |
1607 | 13歳のとき、綾陽君(ヌンヤングン)に封じられる |
1610 | 韓浚謙の娘(仁烈王后)と結婚する |
1612 | 1月4日、長男(昭顕世子)が生まれる |
1615 | 弟の綾昌君が謀反の罪で流刑となり、流刑地で自決する |
父の定遠君がショックで亡くなる | |
1619 | 次男の李淏(鳳林大君/孝宗)が生まれる |
1622 | 三男の李㴭(麟坪大君)が生まれる |
1623 | 3月13日、仁祖反正(クーデター)により、光海君が廃位する |
綾陽君が第16代王・仁祖として即位する | |
1624 | 李适の乱が起こる |
李适(イ・クァル)が仁祖を王位から降ろし興安君李瑅を擁立するために起こした反乱 | |
李氏朝鮮の内乱としては、初めて王が都から避難している | |
四男の李滾(龍城大君)が生まれる | |
1625 | 長男が世子(昭顕世子)に冊封される |
1627 | 丁卯胡乱は発生 |
後金が3万の軍隊で朝鮮に侵攻、朝鮮が和議に応じ盟約を結び、後金は引き返す | |
盟約により「後金と朝鮮は兄弟関係」となる | |
父の定遠君を元宗、母を仁献王后に追尊する | |
1635 | 12月、仁烈王后は42歳の高齢で出産、母子とも亡くなる |
1636 | 後金が国号を清と定める |
1636 | 1月、丙子胡乱が発生 |
ホンタイジが10万の兵を率いて、わずか5日で漢陽を陥落させる | |
1637 | 1月30日、三跪九叩頭の礼 |
朝鮮が清に降伏、仁祖が三田渡でホンタイジに土下座する | |
これ以降、朝鮮は清の冊封国となる | |
清軍は王子を人質として、50万の朝鮮人捕虜を引き連れて満州に帰還する | |
昭顕世子が清との窓口役を担い、清との親交を深めていく | |
貴人趙氏の間に孝明翁主が生まれる | |
1638 | 12月2日、荘烈王后を王妃として迎える |
1639 | 貴人趙氏の間に崇善君(李澂)が生まれる |
1641 | 貴人趙氏の間に楽善君(李潚)が生まれる |
1643 | 昭顕世子の清での経済活動が仁祖にはおもしろくなく、二人の関係は悪化する |
昭顕世子が清のドルゴンとともに北京に侵攻、このとき西洋文化に触れる | |
1645 | 8年間の人質生活を終えて昭顕世子が帰国する |
昭顕世子が清の文化を絶賛することに仁祖が激怒、二人の仲は更に悪化する | |
4月26日、帰国から2ヶ月後、昭顕世子が急死する | |
弟の鳳林大君が清から帰国、世子となる | |
1649 | 仁祖が亡くなり、鳳林大君が第17代王とし即位する |
第17代王・孝宗(1619年~1659年)
清での8年間の人質生活を終えた孝宗は、北伐(清との戦い)に生涯をかけますが、望みをかなえることなく亡くなっています。
年月日 | 出来事 |
1619 | 綾陽君(後の仁祖)と仁烈王后の次男として生まれる |
1623 | 仁祖反正で光海君を倒し、綾陽君が第16代王・仁祖として即位する |
1626 | 8歳で鳳林大君に封じられる |
1631 | 13歳で当時の右議政である張維(チャン・ユ)の娘と結婚する |
1636 | 12月、ホンタイジが10万の兵を率いて侵攻(丙子の乱) |
鳳林大君(孝宗)は妃嬪や王族、両班たちを率いて江華島に避難する | |
12月14日、仁祖は江華島へ逃れようとするが、清軍に道をふさがれる | |
仁祖は1万3000人の将兵と共に南漢山城に逃げ込むが城を包囲される | |
1637 | 1月30日、仁祖が降伏する |
仁祖がホンタイジに屈辱的な三跪九叩頭の礼を行う | |
鳳林大君(孝宗)、昭顕世子、麟坪大君が清の人質となる | |
1638 | 三男の麟坪大君(7歳)は帰国を許される |
1645 | 清が明を倒す(人質は不要になる) |
2月、昭顕世子と愍懐嬪が人質から解放され帰国する | |
4月、昭顕世子が突然、亡くなる | |
5月、鳳林大君が清から帰国する | |
6月、鳳林大君が世子となる(重臣は反対) | |
1649 | 仁祖が亡くなり、鳳林大君が孝宗として即位する |
守役だった宋時烈と宋浚吉を臣下とする | |
反清派の金集、金尙憲、安邦俊などを臣下に入れる | |
1650 | 親清派の金自点を罷免して、追放する |
金自点を中心とする親清派の勢力を排除する | |
北伐(清との戦い)のために軍隊の強化を図る | |
1651 | 清の摂政・ドルゴンが死亡する |
流配となった金自点が息子と謀反を計画するが事前に発覚する | |
金自点と息子は死罪、協力者の貴人趙氏も賜死、金自点の一派は追放される | |
1652 | 軍隊を拡大、騎兵隊を増やし、漢陽の防御力を高める |
1653 | オランダ人のはハメルが済州島に漂着する |
1654 | 4月、第一次ロシア征伐、清軍に協力してロシア軍を撃退する |
1658 | 6月、第二次ロシア征伐、ロシア軍を撃退する |
1659 | 5月、孝宗が41歳で亡くなる |
第18代王・顕宗(1641年~1674年)
顕宗は国外(清)で生まれた唯一の王です。
年月日 | 出来事 |
1641 | 孝宗(鳳林大君)が清の瀋陽に人質として滞在した時に生まれる |
1644 | 孝宗の一家が清から帰国 |
1645 | 4月26日、昭顕世子が亡くなる |
6月、父の孝宗(鳳林大君)が世子になる | |
1649 | 2月18日、顕宗が王世孫に冊封される |
5月8日、仁祖が亡くなり、父の鳳林大君が孝宗として即位する | |
1651 | 顕宗が世子に冊立される(11歳) |
明聖王后が揀択で世子嬪に選ばれる | |
1659 | 6月23日、孝宗が亡くなり、顕宗が第18代王として即位する |
1次礼訟論争が起こる | |
西人が勝ち、勢力拡大、南人が衰退する | |
1660 | 長女の明善公主が生まれる |
1661 | 長男(後の19代王・粛宗)が生まれる |
1662 | 大同法を湖南地方(今の全羅道)まで拡大して施行した |
1665 | 次女の明恵公主が生まれる |
1667 | 三女の明安公主が生まれる |
1668 | 娘が生まれるが、すぐに亡くなる |
1670 | 2年間に渡る庚辛大飢饉で約100万人が餓死した |
1674 | 孝宗妃の仁宣王后が亡くなる |
2次礼訟論争が起こる | |
南人が勝ち、勢力を拡大する | |
1674 | 9月17日、34歳で逝去する |
第20代王・景宗(1688年~1724年)
張禧嬪の子として生まれた景宗は、派閥の闘争のなかで、まともに政治を行うことなく、短い生涯を終えています。
年月日 | 出来事 |
1688 | 粛宗と張禧嬪の間に長男として生まれる |
1689 | 元子となる |
1690 | 1月、3歳で世子に冊封される |
10月、母親の張禧嬪が王妃になる(己巳換局) | |
1694 | 4月、母親の張禧嬪が正妃から嬪の位に降格される(甲戌換局) |
南人派が没落。仁顕王后が復帰。叔父・張希載(チャン・ヒジェ)が流刑になる | |
世子の母・禧嬪張氏の処遇を巡って西人派が老論と少論に分裂 | |
1696 | 4月、揀択により世子嬪(端懿王后)が選ばれる |
1701 | 仁顕王后を呪っていたとして母親が賜死させられる |
叔父の張希載は流刑地で死罪となる | |
景宗は父の粛宗から冷遇され、憂鬱症になる | |
1717 | 粛宗は李頤命に延礽君を世子の後継に定め、世子に代理聴政させることを命じる |
1718 | 3月、世子嬪(端懿王后)が病気で亡くなる |
新たに世子嬪(宣懿王后)を迎える | |
1720 | 粛宗が逝去。第20代王・景宗として即位する |
亡くなった世子嬪が端懿王后に追尊され、陵号が恵陵とされる | |
1721 | 8月、延礽君(後の英祖)が世弟となる |
10月、延礽君の代理聴政をめぐり、老論と少論が衝突、朝廷が混乱する | |
辛丑獄事(シンチュオクサ)老論四大臣を含む、老論派が追放される | |
1722 | 壬寅獄事(イミンオクサ) |
少論派が老論四大臣を処刑、多数の老論派を大虐殺する | |
少論派が政権を掌握する | |
辛丑獄事と壬寅獄事を総称して辛壬士禍(辛壬の獄)と呼ぶ | |
1724 | 8月、景宗が37歳で亡くなる |
1730 | 6月、宣懿王后が26歳で亡くなる |
第22代王・正祖(1752年~1800年)
イ・サン(正祖)を扱ったドラマには「イ・サン」や「赤い袖先」があります。
年 | 出来事 |
1752 | イ・サンが荘献世子と恵慶宮の次男として生まれる |
英祖の側室・淑儀文氏が長女の和寧翁主を生む | |
1754 | 英祖の側室・淑儀文氏が次女の和吉翁主を生む |
1757 | 英祖の正室 貞聖王后が亡くなる |
和緩翁主が娘と夫を亡くし、宮廷に戻る | |
1759 | 英祖が新しい王妃(貞純王后)を迎える |
厳しい英祖と重臣たちの誹謗中傷に荘献世子の精神は病んで、しだいにおかしな行動をとるようになる | |
イ・サンが8歳で王世孫に冊立される | |
1762 | 2月、イ・サンが孝懿王后と結婚する |
老論派の羅景彦が荘献世子の罪状を訴える | |
5月21日、荘献世子が米びつに閉じこめられて餓死する | |
父親・荘献世子の死後、後継者として帝王教育を受ける | |
1764 | 和緩翁主が鄭厚謙を養子にする |
1766 | 宜嬪成氏がイ・サンの寵愛を受け始める |
1771 | 英祖の側室・淑儀文氏が淑儀(従二品)に冊封される |
1772 | 9月、洪国栄が科拳の文科に合格する |
1773 | 2月、洪国栄が承文院副正字(従九品相当)に任官される |
1774 | 3月、洪国栄が侍講院の説書(正七品)になる(この頃、イ・サンと出会う) |
1775 | 11月20日、英祖がイ・サンの代理聴政を提案するが、猛反対される |
12月3日、洪国栄が世子侍講院兼司書(正六品) | |
12月7日、イ・サンが代理聴政をはじめる | |
1776 | 3月5日、英祖が亡くなる |
3月10日、イ・サンが第22代王・正祖に即位する | |
父親の死に関わった人物に対する大規模な粛清を開始する | |
3月30日、淑儀文氏の爵位を剥奪、私邸に軟禁する | |
淑儀文氏の兄・文聖國は処刑、母は済州に送り奴婢とする | |
4月、国王直属の奎章閣を設置する | |
5月13日、淑儀文氏を都城(漢陽)の外に追放する | |
7月6日、洪国栄が承政院都承旨(正三品堂上)になる | |
8月10日、淑儀文氏に賜死を命じる | |
11月19日、洪国栄が軍事権をもつ、守禦庁の長官(正二品)になる | |
1777 | 8月、イ・サンの暗殺計画が実行されるが未遂に終わる |
11月、王の護衛組織・宿衛所を設置、洪国栄が宿衛大将に就任する | |
父親を「荘献」と追尊する | |
1778 | 洪国栄の妹の元嬪洪氏が側室となる |
1779 | 5月、元嬪洪氏が病死する |
洪国栄が李湛を亡き妹の養子にする | |
李湛を完豊君として、後継者教育を始める | |
洪国栄の露骨な行為は弾劾を受け、引退せざるを得なくなる | |
イ・サンは洪国栄の追放(故郷・江陸)を決定する | |
1780 | 和嬪尹氏を側室に迎える |
1781 | 4月5日、洪国栄が追放先で亡くなる |
金弘道が正祖の肖像画(御真)を描く | |
1782 | 9月7日、宜嬪成氏が女官身分で文孝世子を出産する |
1783 | 宜嬪成氏が宜嬪になる |
1784 | 宜嬪成氏に長女が生まれるが、すぐに亡くなる |
息子の文孝世子が正式に世子に冊封される | |
1785 | 壮勇衛(国王専門の護衛部隊)が設置される |
1786 | 5月11日、文孝世子が亡くなる |
7月22日、貞純王后の兄・金亀柱が流刑地で病死する | |
9月14日、宜嬪成氏も3回目の出産を控えて亡くなる | |
1787 | 綏嬪朴氏を側室に迎える |
1789 | 荘献世子の墓を京畿道楊州の拝峰山から水原に移す |
丁若鏞が科挙に合格して官吏になる | |
1790 | 7月9日、綏嬪朴氏に李玜(純祖)が生まれる |
1791 | 2月、辛亥通共を公布する |
11月、天主教徒の尹持忠らを処刑する(辛亥迫害) | |
1793 | 壮勇衛が規模を拡大して壮勇営(王宮の護衛組織)となる |
1794 | 甲寅通共を公布する |
1795 | 金萬徳が私財を投入して、済洲の飢饉を救う |
1796 | 水原華城が完成する |
1799 | 1月、イ・サンを支えた南人の領袖・蔡齊恭が亡くなる |
イ・サンの文集「弘斎全書」の編集を開始する | |
1800 | 李玜を世子として封じる |
イ・サンが体調不良に陥る | |
金祖淳の娘を李玜(純祖)の世子嬪に内定する | |
6月28日、イ・サンの病状は悪化、49歳で亡くなる | |
李玜が第23代王として即位する(純祖) | |
1802 | 9月6日、金祖淳の娘が純祖の王妃になる |
第23代王・純祖(1790年~1834年)
純祖は即位時は「貞純王后による摂政」、親政後は「安東金氏による勢道政治」と思うように政治をすることが出来なかった国王です。
年月日 | 出来事 |
1790 | 正祖と綏嬪朴氏の間に生まれる |
1800 | 1月、世子に冊封される |
6月、正祖が亡くなり、第23代国王として即位する | |
まだ幼く、英祖の妃・貞純王后が摂政を行う(垂簾聴政) | |
貞純王后によるカトリック教徒の弾圧、時派と南人派の粛清が始まる | |
1802 | 10月2日、安東金氏(純元王后)が王妃になる |
1803 | 12月、純祖が親政を始める |
1805 | 貞純王后が亡くなる |
安東金氏による勢道政治が始まる | |
1809 | 8月、孝明世子が生まれる |
1811 | 洪景来の乱。朝鮮最初の農民反乱 |
1812 | 孝明世子が3歳で世子に冊封される |
1819 | 10月、孝明世子が豊壌趙氏(神貞王后)と結婚する |
1827 | 孝明世子が摂政を始める |
7月、孝明世子に子供が生まれる(第24代憲宗) | |
1830 | 孝明世子が22歳で亡くなる |
1834 | 11月、純祖が45歳で亡くなる |
第24代王・憲宗(1827年~1849年)
憲宗は幼くして王になりましたが、純元王后の垂簾聴政、安東金氏と豊壤趙氏の政争に巻き込まれ、自ら思った政治を行うことなく生涯を終えました。
年月日 | 出来事 |
1827 | 孝明世子と神貞王后の長男として生まれる |
1830 | 父親の孝明世子が22歳で亡くなる |
王世孫に冊封される | |
純祖は趙万永・趙寅永兄弟に世孫を守るように指示をだす | |
1831 | カトリック朝鮮大教区(現在のカトリック・ソウル大教区)が承認される |
1834 | 純祖が逝去。8歳で憲宗として即位する |
神貞王后は王大妃になり、「孝裕王大妃」の称号が与えられる | |
憲宗が幼いことから大王大妃の純元王后が垂簾聴政を行う | |
趙万永の弟・趙寅永が領議政になるが、安東金氏の影響力が強くなる | |
1836 | 南膺中(ナム・ウンジュン)の謀反。 |
忠清道にいた南膺中が恩彦君の孫を擁立して謀反を計画するが失敗する | |
1837 | 安東金氏の金祖根の娘(孝顕王后)と結婚する |
憲宗11歳、孝顕王后10歳、純元王后の策略による | |
1839 | 己亥迫害でモーバン神父、宣教師、一般信者たちが処刑される |
1841 | 憲宗15歳で親政を始める |
1843 | 王妃の孝顕王后が16歳の若さで亡くなる |
1844 | 関晋鏞の獄 |
閔晋鏞が再び恩彦君の孫を擁立して謀反を計画するが失敗する | |
8月、孝顕王后が突然病気で死去する | |
1844 | 洪在龍の娘(孝定王后)を継妃に迎える。憲宗18歳、孝定王后14歳 |
1845 | イギリス軍艦サマラン号が朝鮮政府の許諾なしに済州島と西海岸を測量する |
韓国教会史初の韓国人カトリック司祭である金大建神父が殉教する | |
1846 | フランス提督セシルがフランス人宣教師虐殺事件に対する問責書簡を国王に送る |
1846 | 大妃趙氏(神貞王后)の父・趙万永が亡くなる |
再び安東金氏一門が権力を掌握する | |
1847 | 揀択で16歳の慶嬪金氏が側室に選ばれる |
1848 | 慶嬪金氏の宮廷内に住居・錫福軒を建てる |
外国船が慶尚道・全羅道・黄海道などに頻繁に出没する | |
1849 | 6月、憲宗が23歳で亡くなる |
純祖は安東金氏の力を抑えるため、有力な家門の豊壤趙氏の娘を孝明世子の妃に選びました。
そして、孝明世子に代理聴政を行わせ、世子嬪趙氏の父・趙万永やその弟・趙寅永などを要職につけるなど、豊壤趙氏から人材を採用していきました。
豊壤趙氏は孝明世子の味方となり、次々と安東金氏を追放していきます。
こうして、一時は、安東金氏の力を抑えることに成功しますが、孝明世子が亡くなると再び、安東金氏が権力を盛り返していきました。
第26代王・高宗(1852年~1919年)
高宗は朝鮮王朝末期を生きた国王です。
年月 | 出来事 |
1852 | 李昰応(興宣君)に次男の命福(後の高宗)が生まれる |
1863 | 命福が第26代王・高宗として即位する |
父は興宣大院君と称される | |
1865 | 景福宮の再建工事を開始 |
1866 | 3月、丙寅教獄(宣教師9名と多数の信者を処刑) |
3月、明成皇后を高宗の王妃とする | |
10月、丙寅洋擾(フランス海軍と交戦) | |
1871 | 6月、辛未洋擾(通商を迫った米国が江華島に侵攻) |
興宣大院君により、書院が47ヶ所に整理される | |
1873 | 11月、癸酉政変(大院君失脚、高宗の親政が始まる) |
閔氏一族の勢道政治が始まる | |
1874 | 3月、明成皇后が長男・李坧(後の純宗)を出産 |
1875 | 8月、李坧が清から世子として認められる |
1875 | 9月、江華島事件(日本軍と朝鮮軍の交戦) |
1882 | 7月、壬午事変(朝鮮人兵士の反乱) |
明成皇后は宮殿を脱出、閔応植に保護される | |
1882 | 8月、大院君が清に強制連行、幽閉される |
1884 | 12月、甲申政変(日本軍が王宮を占領) |
清軍が反撃、3日後には閔氏が政権を奪回 | |
1885 | 1月、日朝間で漢城条約が結ばれる |
4月、日清間で天津条約が結ばれる | |
10月、大院君が清から帰国 | |
1890 | 東学党の全琫準を門客として保護 |
1893 | 2月、大院君が全琫準と東学党の支援を密約 |
1894 | 2月、甲午農民戦争が始まる |
7月、甲午倭乱(日本軍による王宮占拠) | |
開化派の政権成立、大院君が摂政に再任 | |
1ヶ月後に摂政を解任、雲峴宮に幽閉される | |
7月、甲午改革が始まる | |
8月、日清戦争が始まる | |
11月、甲午農民戦争の鎮圧(牛金峙で大敗) | |
1895 | 4月17日(旧3月23日)、日清講和条約(下関条約) |
10月8日、乙未事変(明成皇后暗殺される) | |
10月、大院君が明成皇后の廃位を提言 | |
1896 | 2月、高宗はロシア公館に亡命 |
大院君は揚州に隠居(権力欲はなくなる) | |
1897 | 10月12日、高宗は皇帝に即位する |
10月14日、国号を大韓帝国と改める | |
1898 | 1月、大院君の夫人が死去 |
1898 | 2月2日、大院君79歳で死去 |
7月、高宗譲位計画事件が起こる | |
9月、金鴻陸による毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件) | |
1904 | 2月10日、日露戦争が勃発 |
2月22日、強制的に第1次日韓協約を締結。財務・外交に日本人顧問を置くことを認める | |
1905 | 第2次日韓協約。外交権剥奪、日本の保護国とされる |
1907 | 7月、ハーグ密使事件 |
高宗は強制的に譲位させられる | |
第3次日韓協約。軍隊は解散、外交権だけでなく内政権も剥奪される | |
1919 | 1月21日、高宗が亡くなる。享年68歳 |
第27代王・純宗(1874年~1926年)
純宗は朝鮮王朝最後の国王です。
年月 | 出来事 |
1874 | 高宗と明成皇后の次男として生まれる |
1875 | 王世子として冊封される |
1882 | 9歳で閔台鎬の娘(純明孝皇后)と結婚する |
1884 | 開化派金玉均を中心に甲申政変が起こり、閔氏一族が排除される |
1894 | 甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発 |
1897 | 国号が大韓帝国と改め、皇太子と改称される |
1898 | 高宗・皇太子暗殺未遂事件 |
毒入りのコーヒーを飲み、純宗は障害をもつようになる | |
1904 | 満州と朝鮮を挟んで日露戦争が勃発 |
1907 | 7月20日、高宗がハーグ密使事件の責任を取って譲位 |
純宗が第2代皇帝として即位する | |
7月24日、第3次日韓協約によって、日本が国政、立法権・司法権への干渉を始める | |
皇太子には異母弟の英王李垠が冊封される | |
8月1日には韓国軍が解散、軍事権が日本に掌握される | |
純宗は形だけの皇帝となり、その後、心身ともに衰弱、一人では歩行が困難な状態になる | |
1909 | 9月、日本が全国的な義兵討伐を開始 |
10月、韓国統監を辞職した伊藤博文が韓国の独立運動家安重根に暗殺される | |
1910 | 8月22日、韓国併合条約が締結。日韓併合が実施される |
8月29日、大韓帝国は滅亡、朝鮮総督府が設置され植民地となる | |
純宗は王族と位置づけられ「李王」と称される。皇帝から王への降格 | |
異母兄弟の李垠が王世弟となる | |
高宗は李太王となり、軟禁状態となる | |
1917 | 6月、純宗は日本を訪問、10年前に訪韓した大正天皇に謁見する |
1919 | 2月21日、父・高宗が68歳で亡くなる |
3月1日、三・一独立運動が起こる(大日本帝国からの独立運動) | |
1926 | 4月25日、純宗が52歳で亡くなる |
李垠と妻・李方子(1897年~1989年)
朝鮮王朝最後の皇太子であった李垠の妃は、日本の皇族の娘・梨本宮方子でした。
年月 | 出来事 |
1897 | 10月20日、李垠が高宗の七男として生まれる |
1901 | 11月4日、梨本宮守正王と伊都子夫妻の長女として李方子が生まれる |
1907 | 8月27日、義兄の李坧が純宗として即位 |
9月7日、李垠が皇太子に冊立され、英王と称される | |
12月、李垠が12歳で日本に留学 | |
1908 | 李垠は日本の学習院に入学する |
1910 | 日韓併合 |
朝鮮の王室は日本の皇族に準じる王公族となる | |
純宗は李王と称され、李垠は王世子となる | |
1911 | 李垠は陸軍中央幼年学校予科の第2学年に編入 |
1913 | 9月、陸軍中央幼年学校本科に入学 |
1915 | 士官候補生となり、近衛歩兵第2連隊に配属される |
1916 | 学習院女子中等科在学中の李方子と李垠が婚約 |
1917 | 李垠は陸軍士官学校を卒業、陸軍将校となる |
1918 | 皇室典範第39条が増補され、結婚が容認される |
1919 | 1月21日、李太王(高宗)が逝去、結婚は延期される |
1920 | 4月28日、李垠と李方子が結婚する |
1921 | 長男の晋が生まれる |
1922 | 夫妻は、晋を連れて日本統治下の朝鮮を訪問する |
帰国直前に晋は急逝する。性消化不良と診断される | |
韓国、日本の双方から毒殺説が流れる | |
1923 | 陸軍大学を卒業する |
1926 | 李王(純宗)が逝去、李垠が王位を継承、李王垠と呼ばれる |
朝鮮軍司令部附を兼務する | |
1927 | 5月から翌1928年4月まで夫妻は欧州を訪問する |
1923 | 李方子が流産する |
1928 | 陸軍少佐となる |
1930 | 李方子が2度目の流産する |
1931 | 次男の玖が生まれる |
1938 | 李垠は陸軍少将になり、中国に赴任する |
1940 | 李垠は陸軍中将になる。大阪に赴任する |
1941 | 12月、太平洋戦争の勃発 |
1943 | 李垠は第1航空軍司令官になる |
1945 | 4月、李垠は軍事参議官になる |
8月、日本が太平洋戦争に敗戦する | |
日本政府からの歳費が打ち切られ、生活は苦しくなる | |
1946 | 財政再建の財産税により、多額の納税負担を負う |
1947 | 王公族の身分を喪失、外国人扱いとなる |
但し、国籍はまだ日本のまま | |
1948 | 大韓民国が建国、李承晩が大統領となる |
1952 | 平和条約発効により、日本国籍を喪失。無国籍となる |
李承晩大統領が韓国籍を認めず、帰国できなかった | |
財産税の納入時の多額の借金返済に李王家邸を売却 | |
李王家邸は後に赤坂プリンスホテル(旧館)となる | |
1957 | 留学していた息子の李玖がマサチューセッツ工科大学を卒業 |
家族で米国生活を始める | |
1959 | 3月、李垠が脳血栓に倒れ、歩行困難になる |
5月に日本に戻る | |
1960 | 再度渡米を企図して、夫妻は日本国籍を取得する |
初代大統領・李承晩が失脚 | |
1962 | 大韓民国の国籍法の規定に基づき、夫妻が韓国籍を回復する |
1963 | 韓国政府からの生活費の送金が開始される |
5月、李垠の容体が悪化、赤坂の山王病院に入院する | |
11月22日に夫婦ともに韓国へ渡り、大歓迎を受ける | |
病身の李垠はソウルの聖母病院に入院する | |
1970 | 5月1日、李垠がソウルの聖母病院で逝去 |
韓国に帰化した李方子は障害児教育に取り組み始める | |
1989 | 4月30日、李方子が逝去。享年87歳 |