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新羅(シルラ)の歴史年表【ドラマの史実を歴代王毎に詳しく知る】

新羅王朝の歴史をドラマを見るのに役立つ内容で年表に整理しました。

時代劇を見るときの参考にしてください。

不足の年代は随時、追加していく予定です。

日付は陰暦を採用しています。

新羅の国号の始まり

新羅は智証麻立干まで王号に居西干、次次雄、尼師今、麻立干などが使われていました。

尼師今は「年長者」、麻立干は、「最高の首長」、「首の族長」などを意味する言葉でした。

 

また、国号も斯羅(サラ)や斯蘆(サロ)と称されてきました。

そこで、第22代王・智証麻立干のときに、

「徳業が日々新になる」の「新」と「四方を網羅する」の「羅」をとって新羅にすべきとの臣下の上奏を採用して、503年に新たな国号「新羅」と王号を使用するようになりました。(三国史記より)

 

従って、考古学的には、紀元前57年に斯盧国として生まれた新羅は、935年に高麗に滅ぼされるまで一千年に渡って栄える国となりますが、史料文献的には、503年に建国された約400年の歴史を有する国となります。

 

また,新羅の歴史上最も大きな出来事は三国統一であり、歴史的にも三国統一以降を「統一新羅」として、三国時代の新羅とは明確に区別しています。

 

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24代・真興王(534年~576年)

<真興王が登場するドラマ>
・善徳女王
・花郎
・王女ピョンガン月が浮かぶ川

<真興王の生涯と出来事>

出来事
534 法興王の弟の金仇珍と只召夫人(只召太后)の間に生まれる
540 7月に法興王が亡くなる
彡麦宗(サメクチョン)が7歳で即位(真興王)
只召太后の摂政を実施する
551 真興王が18歳で親政を行う
新羅、百済、伽倻の連合軍で高句麗を攻撃する
漢城(百済の都)を陥落、漢江の下流地域を高句麗から奪回する
漢江の下流地域を新羅と百済で分け合う
553 高句麗と密約を結び、百済を攻撃する
新羅が漢城(百済の都)を陥落、漢江の下流地域を全て奪う
554 新羅の裏切りに怒った百済の聖王は同盟を破棄、新羅に攻撃を仕掛ける
新羅と伽倻の連合軍が百済を破る
百済の聖王が息子を見舞いに行く途中で殺される
562 新羅が大伽耶を攻撃、伽倻の領土を掠奪する
高句麗、百済、新羅の三国時代を迎える
566 祇園寺と実際寺を建設する
576 皇龍寺を建設する
576 8月、真興王が享年43歳で亡くなる

 

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26代・真平王(579年~632年)

<真平王が登場するドラマ>
・善徳女王
・大王の夢

<真平王の生涯と出来事>

出来事
579 7月、真智王が亡くなり、真平王が即位する
8月、伊飡の弩里夫を上大等に任命する。母方の叔父伯飯を真正葛文王、国飯を真安葛文王とする
580 2月、伊飡の后稷を兵部令に任命する
1月、初めて位和府を設置する。今の吏部である
583 1月、初めて船府署に大監と弟監の各一名を置いた
584 2月、元号を建福に改めた
3月、調府令に一名置き、貢物及び租税のことを管轄した。乘府令に一名置き、車のことを管轄した
586 1月、礼部令に二名置いた。(礼部令は文交と儀礼を司る部門)
588 12月、上大等の弩里夫が亡くなり、伊飡の首乙夫を上大等に任命する
589 3月、円光法師が陳に行って仏法を求めた
7月、国の西部で大洪水が発生。30360戸の民家が被害を受け、200余名が亡くなった
591 2月、領客府令に二名を置いた。(領客府令は外国の使者を設定する部門)
7月、南山城が完成する
593 7月、明活城を改築した。西兄山城を築いた
594 隋の皇帝が王を「上開府・樂浪郡公・新羅王」に冊封した
596 3月、高僧の曇育が隋に行って仏法を求めた。隋に使者を派遣して貢物をした
10月、永興寺で火災があった。350軒が焼失した
597 三郞寺が完成する
600 高僧の円光が隨の朝聘使の奈麻の諸文や大舍の橫川を従えて帰国した
602 隋に使者として大奈麻の上軍を派遣して朝貢した
8月、百済が阿莫城を攻めてきた。王は将士を派遣した百済軍を大敗させた。貴山と箒項が戦死した
9月、高僧の智明が隨の入朝使の上軍を連れて帰国した。王が智明を大德にした
603 8月、高句麗が北漢山城に侵攻したが、王は自ら1万の兵を率いて撃破した。
604 7月、大奈麻の萬世と惠文を隋に派遣して朝貢した。南川州を廃止して、北漢山州を置いた
605 3月、高僧の曇育が隨から入朝使の惠文を連れて帰国した
8月、百済に兵を派遣した
608 王は高句麗が度々、侵略するのを患い、隋に高句麗討伐の出兵を依頼したと思い、国光に上表文を書くように命じた
2月、高句麗が国境の北に侵攻、8000人を捕虜とし連れ帰った
4月、高句麗が鳴山城を陥落させた
611 新羅が隋に出兵を依頼する。隋の皇帝が許可する
10月、百済が椵岑城を百日も包囲した。縣令の讚德が固守したが、力尽きて、城は陥落した。
612 隋が高句麗を攻撃する(失敗、隋滅亡のキッカケとなる)
614 真興王の妃、比丘尼が逝去する
616 10月、百済が母山城を攻撃してきた
618 北漢山州の軍主の邊品が椵岑城を奪還しようと百済と戦った。奚論は軍に従い、戦いに挑んで戦死した。奚論は讚德の子である
618 隋が滅亡、唐が建国する
621 王は大唐に使者を派遣して朝貢した
623 1月、兵部に大監二名を置いた
10月、大唐に使者を派遣して朝貢した
百済が勒弩縣を襲撃した
1月、侍衛府に大監を六員、賞賜署に大匠を一員、大道署に大正を一員置いた
3月、唐の高祖が使者を送ってきて、「柱國・樂浪郡公・新羅王」に冊封した
624 10月、百済が新羅の6つの城(速含、櫻岑、岑、烽岑、旗懸、穴柵)を包囲、3城を陥落させる
625 11月、大唐に使者を派遣して朝貢した。
高句麗が道を塞いで朝貢できないこと、しばしば侵入してくること訴えた
626 7月、大唐に使者を派遣して朝貢した
626 金春秋が金庾信の妹(後の文明王后)と結婚する
8月、百済が新羅の主在城を攻める。城主を殺害
627 6月、大唐に使者を派遣して朝貢した
7月、百済の将軍・沙乞が国境西部の2城を襲撃、男女300余人を捕虜として連れ帰える
11月、大唐に使者を派遣して朝貢した
628 2月、百済が新羅の椵岑城を攻める。王が出兵して撃破する
629 8月、新羅が高句麗の娘臂城を陥落させる(金庾信の活躍)
631 チルスクの乱
632 真平王が逝去、善徳女王が即位する

 

27代・善徳女王(632年~647年)

ドラマになった善徳女王は謎の多い女王で、特に即位前に関しては情報がありません。

<善徳女王が登場するドラマ>
・善徳女王
・大王の夢

<善徳女王の生涯と出来事>

出来事
586 真平王と天摩耶夫人の間に生まれる(出生年は推定)
632 1月、真平王が逝去、善徳女王が即位する
2月、国政を大臣の乙祭に任せる
10月、国内に使者を派遣して、夫や妻を失ったもの、独身のもので自立できないものに施しを与える
633 1月、王が神宮を祭り、大赦を行った。1年間、租と調を免除する
7月、唐に使者を派遣して朝貢する
8月、百済が新羅の西谷城を陥落させる
634 1月、元号を仁平とする。芬皇寺が完成する
635 唐が使者を派遣してきて、善徳女王を「柱國樂浪郡公新羅王」として認めた
靈廟寺が完成する
10月、伊飡の水品と龍樹(龍春ともいう)を派遣して、州や郡を巡視させる
636 1月、伊飡の水品を上大等に任命する
3月、王が病にかかる、医術も祈祷も効果がなかった
皇龍寺に百高座を設け、僧侶を集め、「仁王経」を読ませた。新たに百人が僧になることを許可する
5月、西の玉門池に集まった蝦蟇から、百済の侵入を予知する
獨山城を襲撃しようとした百濟の將軍・于召と兵士五百人を閼川が襲撃して殲滅させた
慈藏法師が唐に行き,仏法を求める
637 1月、伊飡の思眞を爲舒弗邯に任命する
7月、閼川を大將軍に任命する
638 10月、高句麗が新羅の北方の七重城を攻める
大將軍閼川を派遣して、山谷に逃げ込んだ民衆を集めて安心させる
11月、閼川が高句麗の兵と七重城の外で戦い、勝利を収める
639 2月、何瑟羅州を北小京として、沙飡の眞珠に治めさせる
640 5月、王が王族の若者を唐に派遣して、国学に入学させて欲しいとお願いする
641 百済の武王が逝去
百済最後の王・義慈王が即位。新羅侵略を開始する
642 1月、使者を唐に派遣して、特産物を献じる
7月、百済は大軍を動員して、新羅の国境近くの40余城を攻略する
8月、百済が高句麗と結託、新羅の党項城を陥落させる(唐との連絡路を断つ)
8月、百済は伽耶地方に侵略、大耶城を陥落させる(大耶城の戦い)
大耶城主(品釈)とその妻(金春秋の娘)が殺害される
10月、高句麗で淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)がクーデターで栄留王を殺害する
宝蔵王が高句麗第28代王として即位する
金春秋が援軍を要請に高句麗へ行くが、交渉は決裂、監禁される
金庾信は1万の兵を挙げて救出に向かう。金春秋を釈放される
金庾信が押梁州の軍主に任命される
643 1月、唐に使者を派遣して特産物を献じる
3月、仏法を求めて唐に行っていた高僧の慈藏が戻ってくる
9月、新羅が唐に高句麗・百済連合を討つ救援軍を求める
(援軍の条件の一つとして、女帝をやめ、太宗の親族を王することを提案される)
644 1月、唐に使者を派遣して特産物を献じる
唐の太宗が高句麗に新羅との和解を要求するが拒否される
(新羅が火事場泥棒的に高句麗の領土を奪ったと主張)
9月、金庾信が大将軍となり、百済の7つの城を陥落させる
<644年から649年にかけて新羅と百済の間で激しい戦争が行われ、金庾信が休む間もなく、百済討伐に東奔西走する>
645 1月、唐に使者を派遣して特産物を献上する
3月、慈藏の願いによる皇龍寺の塔が建造される
5月、唐の第1次高句麗侵攻(10数万の兵)が始まる。
王は3万の兵を率いてこれを援護する
10月、高句麗の抵抗が強く、唐は撤退を余儀なくされる
百済が唐の高句麗侵攻に乗じて、西部の7つの城を奪取する
11月、伊飡の毗曇を上大等に任命する
647 日本書紀によると金春秋が使節として倭国を訪問。人質となる(信憑性は低い)
647 1月、毗曇(ピダム)の乱、廃位を求め反乱を起こす
金庾信により、10日余りで鎮圧される
1月8日、毗曇の乱の最中に善徳女王が病死する。狼山に埋葬される

 

28代・真徳女王(647~654年)

二人目の女王として登場した真徳女王ですが、善徳女王同様、即位前の情報はありません。

<真徳女王が登場するドラマ>
・大王の夢

<真徳女王の生涯と出来事>

出来事
不詳 父・金国飯と母・月明夫人の間に生まれる
647 1月8日、毗曇の乱の最中に善徳女王が病死
真徳女王が即位する
1月17日、毗曇の乱が鎮圧され、毗曇が処刑される
2月、伊飡の閼川を上大等,大阿飡の守勝を牛頭州の軍主に任命する
7月、唐に使者を派遣して謝意を評する。元号を太和と改める
10月、百済軍が茂山、甘勿、洞岑の三城を包囲した
金庾信が1万の兵を率いて進撃。当初は苦戦したが、最後は百済軍を壊滅させる
11月、王が神宮を祀(まつ)る
648 1月、唐に使者を派遣して朝貢する
3月、百済(将軍義直)が新羅の腰車城など10の城を陥落させる
王は金庾信に義直討伐を命じ、義直の軍を壊滅させる
7月、金春秋は息子の金文王と唐に派遣される(新羅と唐同盟が成立)
唐の太宗は金春秋を大変気に入り、手厚くもてなす
諸条件を前提に新羅と唐の軍事同盟が成立する
金春秋が唐からの帰国途中で高句麗兵に遭遇、従者の温君解を身代わりにして助かる
金庾信が百済から大耶城など20の城を奪還する
649 1月、唐の衣冠を着ることになる
(唐との約束どおり、唐の諸制度を取入れて中央集権政治を確立)
5月、唐の太宗が逝去、6月に高宗が第3皇帝として即位する
8月、百済(将軍殷相)が新羅の石吐など7つの城を陥落させる
大将軍の金庾信、將軍の陳春、竹旨、天存が出兵して、百済軍を大敗させる
650 4月、真骨で位のあるものに、象牙で作った笏を与えた
6月、唐に使者を派遣して、百済の大軍を撃破したことを報告する
王は唐の皇室を称えた詩「五言太平頌」を法敏(金春秋の息子)に持たせ唐に派遣した
高宗は大変喜び、法敏を大府卿の称号を与え帰国させる
高宗の意見で中国の年号「永徽」を初めて使用する
651 1月、王が朝元殿に出御し、百官の正月の賀礼を受ける。賀正の礼はこのときから始まる
652 1月、波珍飡の天曉を左理方府の令に任命する
使者を唐に派遣して朝貢する
653 11月、唐に使者を派遣して金緫布を献じる
654 3月、真徳女王が亡くなる。諡を真徳として、沙梁部に埋葬する

 

29代・武烈王(金春秋)(654年~661年)

武烈王はドラマの影響で金春秋の名の方がよく知られています。

金庾信とともに三韓統一の基礎を作り上げた国王でした。

<武烈王(金春秋)が登場するドラマ>
・淵蓋蘇文
・善徳女王
・階伯
・大王の夢

<武烈王の生涯と出来事>

出来事
603 金春秋が金龍春と天明公主(真平王の娘)に間に生まれる
654 3月、真徳女王が亡くなり、金春秋が武烈王として即位する
4月、金春秋の亡き父を文興大王、母と文貞太后と追贈した
5月、理方府令の良首らに理方府格六十余条を制定を命じる
唐が武烈王を「開府儀同三司新羅王」に冊封した(王として認める)
655 1月、伊飡の金剛を上大等,波珍飡の文忠を中侍に任命する
百済と高句麗の連合軍が新羅の33の城を掠奪する
武烈王は唐に使者を派遣して救援を求める
3月、唐が營州都督の名振を派遣して高句麗を攻撃する
長子の法敏を太子に冊立、四男の文王に伊飡の官職を与える
老旦を海飡、仁泰を角飡,智鏡と愷元を伊飡とする
武烈王の智炤王女が大角飡の金庾信と結婚する。金庾信61歳
連戦連勝に驕慢になった義慈王が酒色に走る
656 金仁問が唐から帰国、軍主に任命され、獐山城の築城を監督する
7月、王子(左武衛將軍・文王)を唐に派遣して朝貢させる
657 7月、一善郡に大水が発生、溺死者が三百余人に達した
東方の吐含山の地が3年間燃え続けて消えた
658 1月、中侍の文忠を伊飡に改め,文王を執事部の中侍に任命する
659 4月、百済が国境を頻繁に侵略、唐に救援を求める
8月、阿飡の真珠を兵部令に任命する
660 1月、上大等の金剛が逝去。伊飡の金庾信を上大等に任命する
3月、唐が13万の兵を送り、新羅5万の兵と連合して百済を攻める
蘇定方大摠管、金仁問副大摠管、劉伯英将軍が軍を率いた
5月26日、武烈王が金庾信、眞珠、天存と兵を率いて王都を出発する
7月9日、黄山伐の戦いで百済の将軍・階伯が戦死する
7月12日、唐・新羅の連合軍が百済の泗沘城を包囲する
7月13日、義慈王が夜に脱走して、熊津城に立てこもった
(この日)義慈王の息子・隆が大佐平の千福らとともに泗沘城を出て降伏した
7月18日、百済の義慈王が熊津城から出て降伏する
7月29日、武烈王が所夫里城に入城、弟監の天福を唐に派遣、勝利を報告した
8月2日、武烈王は酒宴を開き、百済の諸將の前で義慈王に酒を注がせた
(この日)大耶城を落城させた裏切り者の毛尺と黔日を処刑した
9月3日、蘇定方は義慈王と王族・重臣93人、百済人1万2千人を唐に連行した
9月23日、百済の残党が泗沘城に侵入したが、唐と新羅の兵が撃退する
10月9日、武烈王が太子と軍を率いて礼城を攻撃した
10月18日、礼城を陥落すると、百済の20余城が降伏した
10月30日、泗沘の南嶺の軍柵を攻撃し、1500人を殺害した
11月1日、高句麗が七重城に侵攻して、軍主の匹夫が亡くなった
(この日)義慈王が唐で病死する
11月5日、武烈王は雞灘を渡り、寺岑城を攻撃、700人を殺害した
11月22日、武烈王が百済より帰り、論功行賞を与えた
(その結果)罽衿の卒の宣服を級飡に、軍師の豆迭を高干とした
戦死した儒史知、未知活、寶弘伊、屑儒の4人に応分の官職を与えた。
661 唐の第2次高句麗侵攻に新羅が参加する
6月、高句麗交戦中に武烈王が病死する
668 文武王と金庾信が高句麗を総攻撃、高句麗が滅亡する

 

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