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チヌン王(真興王)の家系図【領土を3倍に拡大した新羅の王】

ドラマ「花郎」に登場するチヌン王 (真興王)はどんな王だったのか?

この記事では彼の家系図をもとに、血筋、家族、政治手腕、そして仏教への信仰まで解説します。

チヌン王(真興王)の家系図

新羅(シルラ)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家の斯蘆(サロ)が、503年に国号を新羅と称したのが始まりです。

しかし、史実として信頼性が高い記録が現れるのは第17代王の奈勿尼師今以後と言われています。

真興王の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<真興王の家系図>

チヌン王(真興王)の父・金仇珍は第23代王・法興王の弟、母・只召太后は法興王の娘でした。従って、彼は法興王の弟と娘との間に生まれた子供になります。

また、朝鮮半島初の女王・善徳女王(第27代王)はチヌン王(真興王)のひ孫に当たります。

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チヌン王(真興王)はどんな王だった?

チヌン王(真興王)は隣国との連合と裏切りを繰り返し、新羅を巨大な国にしたことで知られています。その策略から知略に長けた智将であることが分かります。

真興王のプロフィール

真興王(チンヌワン)
新羅24代王
生年:534年
没年:576年
在位期間:540年-576年
姓・諱:彡麦宗(サメクチョン)
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チヌン王(真興王)の家族

長男の銅輪は若くして亡くなっていますが、次男と孫(長男の息子)は新羅の国王に即位しています。

関係 名前 生年-没年 備考
金仇珍 不詳 法興王の弟、立宗葛文王
只召太后 不詳 法興王の娘
本人 金彡麦宗 534-576 第24代王・真興王
王妃 思道夫人 不詳-614
長男 銅輪太子 不詳-572 息子が第26代王・真平王
次男 金舎輪 不詳-579 第25代王・真智王
三男 金仇輪 不詳
<豆知識>葛文王とは
葛文王とは新羅における王族の称号のひとつで、王位に就けなかった王の父や王の舅などに尊称として与えられたものです。王ではなかった父・金仇珍は立宗葛文王と称されました。

政治へ介入した母・只召太后

チヌン王(真興王)が即位したときは、まだ7歳と幼く、母親の只召太后が摂政として政治を行いました。

只召太后は544年に興輪寺を完成させ、僧侶の出家を許容するなど、仏教国としての基盤を整え、王権の強化に務めています。

また、花郎世記によると、只召太后が花郎制度を制定させたと記録されていますが、ドラマに登場するような「美男子集団の花郎徒」が組織されたのは、チヌン王(真興王)が親政を開始してからでした。

政権と軍権を掌握した只召太后

541年、只召太后は、王族の異斯夫を国防長官にあたる兵部令に任命し、軍事力を掌握しました。

<豆知識>将軍・異斯夫(イ・サブ)
異斯夫(イ・サブ)は17代王・奈勿尼師今の4世孫の王族であり、領土拡大に数々の功績を上げ、武功により三国統一の基礎を築いた武将です。

このようにして、政務と軍事の主導権を握った只召太后は、王による直接支配体制を確立し、貴族中心の政治から王室主導の体制へと転換させていきました。

真興王の親政と領土拡大

551年、チヌン王(真興王)は18歳になると親政を開始。特に、領土の拡大に強い関心を持ち、隣国への侵略に乗り出します。

高句麗への攻撃

チヌン王(真興王)は新羅、百済、伽倻の連合軍で高句麗を攻撃しました。

不意を打たれた高句麗は大敗北。百済は漢江の下流地域を、新羅は漢江の上流地域を手に入れました。

百済への裏切りと侵攻

553年、チヌン王(真興王)は高句麗と密約を結び、百済を攻撃。この攻撃により、新羅は百済が奪った漢江の下流地域を奪回することに成功します。

百済王・聖王の戦死

554年、新羅の裏切りに怒った百済の聖王(「帝王の娘スベクヒャン」に登場)は新羅へ攻撃しますが、敗れて戦死しています。

聖王について詳しくはこちら>>百済の聖王の家系図【息子を助け、殺害された悲劇の王】

三国時代の幕開け

562年、同盟国の伽倻に侵攻して、新羅の領土を3倍に拡大することに成功しました。その結果、名実とも高句麗・百済・新羅が対立する「三国時代」を迎えます。

新羅の領土拡大の説明図

<真興王の親政後の領土拡大>

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仏教振興と晩年の出家

チヌン王(真興王)は先代の法興王が信仰した仏教を積極的に推進しました。

566年に祇園寺と実際寺を建設、576年には皇龍寺を建設し、晩年には自ら出家しています。

彼の死後、王妃の思道夫人も尼となり、永興寺に住んだと言われています。このように、チヌン王(真興王)は仏教を国教として、仏教文化を広く新羅に振興させた王でした。

銅輪太子の急死と後継問題

566年、チヌン王(真興王)は長男の銅輪を新羅史上初の「太子」に冊立しています。

王権の安定継承を考えてのことでしたが、572年、銅輪が急死してしまいました。

576年、新たに太子を冊立することなく、チヌン王(真興王)は享年43歳で亡くなっています。

彼の後を継いだのは、嫡子である銅輪の息子ではなく、次男の舍輪(真智王)でした。

まとめ

チヌン王(真興王)は新羅の領土拡大に執念を燃やした戦略家の王で、親政後は、軍事と仏教の両面で新羅の基盤を築きました。

彼の長男は若くして亡くなりますが、長男の息子から孫へと王位が受け継がれ、最終的にチヌン王(真興王)のひ孫が朝鮮半島初の女王・善徳女王となります。

チヌン王(真興王)は、まさに、新羅の未来を開いた王と言えるでしょう。

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