史実の貞聖王后は温厚でしとやかな王妃と言われています。しかし、韓国時代劇ではまったく異なる性格で描かれることがあります。
この記事では、ドラマ「ヘチ 王座への道」と「トンイ」での描写を比較しながら、貞聖王后の実像に迫ります。
ヘチの貞聖王后|気の強い両班の娘
「ヘチ王座への道」の貞聖王后(チョンソンワンフ)は自分勝手な気の強い両班の娘として描かれています。
<ヘチに登場するソ氏(貞聖王后)>
ヨニングンが世子になる前は、彼女は結婚したことを後悔し、夫に当たり散らして腐っていました。
しかし、世子嬪になると一転、夫への関心は無くなり、自分をよく見せることだけに一生懸命になります。
このドラマでの貞聖王后の性格と行動は、ヨニングンが王座に対して無欲であることを強調するための創作だったと考えられます。
【PR】スポンサーリンクトンイの貞聖王后|聡明でおしとやかな娘
「トンイ」の貞聖王后は、進士(チンサ)である徐宗悌(ソ・ジョンジェ)の娘ヘインとして描かれています。
彼女はとってもおしとやかな娘でした。
<トンイに登場するヘイン(貞聖王后)>
トンイも清らかで聡明な娘を一目で気にい入りました。こちらの描写の方が、史実に近い印象を受ける方も多いかもしれません。
【PR】スポンサーリンク王気(ワンギ)と婚姻選びのエピソードは創作
ヨニングンの婚礼相手を選ぶ際、ドラマではトンイが「王気(ワンギ)が漂う家の娘」を選んだという話が出てきますが、これは創作です。
その家はかつて成宗の父・懿敬世子や宣祖が過ごした由緒ある場所でした。
長男ではない王子たちにゆかりがあるため、「ヨニングンが王になる」という民の噂を呼ぶ可能性があり、トンイはそれを逆手に取ったのです。
実際の王妃・貞聖王后の父は進士の徐宗悌ですが、家に関する逸話は史料には見られません。
史実の貞聖王后|温厚で長期在位の王妃
史実の貞聖王后(チョンソンワンフ)は温厚で寛大な性格だったと言われています。
貞聖王后は1704年、11歳でヨニングン(延礽君)と婚礼を挙げました。彼女はヨニングンより約2歳年上の姉さん女房でした。
1721年、ヨニングンが王世弟となると、彼女も王世弟嬪に。さらに1724年の即位に伴い正式に王妃となり、以後33年間も在位します。
これは朝鮮王朝の王妃の中でも最長クラスです。長い在位中も悪評はなく、側室の子も可愛がったとされ、心優しく善良な王妃だったことがうかがえます。
生年:1693年12月27日
没年:1757年3月26日
王妃在位:1724年-1757年
享年:64歳
父親:達城府院君 徐宗悌
母親:岑城府夫人 牛峰李氏
兄:徐命伯
史実の貞聖王后について詳しくは>>貞聖王后の家系図【最長在位期間33年間の王妃】
ヨニングンと貞聖王后の仲は良かったのか
ヨニングンと貞聖王后の間には子供は出来ませんでしたが、二人は大変仲が良かったと推定されます。
その理由は2つあります。
・死後、彼女を「大王大妃」と追尊したこと
・彼女の墓の隣を自分のために空けていたこと
最大限の称号を与える
英祖実録に貞聖王后を埋葬するときのことを、次のように記録されています。
英祖は自ら貞聖王后の銘旌(めいせい)に文字を記し、また、崩御した大王大妃の梓宮(棺)に「上字」を自筆で書かれた。棺には漆(うるし)を施し、合計で25回塗って完了した。
<引用元:英祖実録1757年6月1日>
「大王大妃の棺」と記録されていることから、死後、大王大妃に追尊されたことが分かります。通常、王妃を死後、大王大妃と称することはありません。
この記録は、英祖が貞聖王后に対して極めて深い敬意と哀悼の意を持って葬儀に臨んだことを物語っています。
「自筆で文字を書く」「漆を25回塗る」といった丁寧な処置は、王としての誠意と王妃への最大限の礼遇を意味しています。
仲良く埋葬されることを希望する
また、ヨニングンは貞聖王后の墓の隣を自分のために空けていました。
<西五陵にある弘陵(貞聖王后のお墓)>
しかし、残念ながら、存命中だった貞純王后への政治的配慮から、ヨニングンは彼女の隣に埋葬されることはありませんでした。
まとめ
ヨニングン(英祖)の正室・貞聖王后は、目立った政治的活動や波乱がなく、非常に堅実で誠実な王妃だったと考えられます。
ヨニングンとの仲も良かったと思われます。
ヘチに描かれた気の強い人物像ではなく、トンイに描かれた清楚な方が実像に近いかもしれません。
在位期間33年という長期間に渡り、静かに、そして、穏やかに朝鮮王朝を支えた王妃であったと思われます。