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仁宣王后の家系図【人質生活を送りながらも孝宗に愛され続けた王妃】

仁宣王后は孝宗とともに清で8年間の人質生活を送りました。

孝宗とは2男8女の子供をもうけるなど仲睦まじかったといいます。

仁宣王后とはどんな王妃だったのか?

家系図からご紹介します。

仁宣王后の家系図

仁宣王后は張舜龍を始祖とする德水張氏一族の出身です。

父親の張維は仁祖のもとで右議政を努めた文臣でした。

<仁宣王后の家系図>

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仁宣王后はどんな王妃だったのか?

仁宣王后は夫の孝宗の北伐の夢に協力し、軍備拡張の費用捻出のため質素倹約に励んだといいます。

また、内命婦の長として、夫が北伐計画に専念できるよう内命婦を統率して規律を正したといわれています。

気が強く、気性の荒い息子の妃(明聖王后)が仁宣王后が生存中は大人しかったといいますから、相当厳しく、口やかましい義母だったと推測できます。

仁宣王后のプロフィール

生年:1619年12月25日
没年:1674年2月23日
在位:1649年5月13日-1659年5月9日
氏族:徳水張氏
父親:張維(장유)
母親:永嘉府夫人(安東金氏)
配偶者:孝宗(第17代国王)
息子:顕宗(第18代国王)
陸墓:寧陵
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仁宣王后の家族

夫の孝宗は愛妻家で、仁宣王后とは仲が良かったと言われています。

二人の間には多くの子供が生まれています。

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ちなみに、四女の淑徽公主(スッキコンジュ)はドラマ「馬医」に登場する可愛い型破りな王女です。

詳しくは>>馬医のスッキ王女(淑徽公主)は死ぬのか?【実在も痘瘡で危篤?】

関係 名前 生年-没年 備考
孝宗 1619-1659 第17代王
本人 仁宣王后 1619-1674 張維の娘
長女 淑慎公主 1634-1645 瀋陽で病死
次女 淑安公主 1636-1697 洪得箕の妻、1男
長男 大君 1637-1642 早世
三女 淑明公主 1640-1699 沈之源の妻、2男
次男 顕宗 1641-1674 第18代王
四女 淑徽公主 1642-1696 鄭斎賢の妻、2男1女
五女 公主 1643-1644 早世
三男 大君 1645-1645 早世
六女 淑静公主 1645-1668 鄭載崙の妻、3男2女
七女 淑敬公主 1648-1671 元夢麟の妻、1女
養女 義順公主 1635-1662 清国皇族、ドルゴンの妃

これだけ多くの娘がいながら、孝宗と仁宣王后は養女を迎えています。

それには、深い理由がありました>>孝宗の養女となった義順公主の悲しい生涯

仁宣王后の生涯

仁祖の次男である鳳林大君と結婚した仁宣王后は、夫の鳳林大君と瀋陽で8年間の人質生活を送っています。

孝宗との結婚

1619年に仁宣王后は右議政・張維の次女として生まれました。

1631年、13歳で仁祖の次男(鳳林大君、後の孝宗)と結婚します。

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1634年、二人の間に長女の淑慎公主が生まれました。

1636年には、次女の淑安公主が生まれています。

丙子の乱の勃発と清での人質生活

1636年、清が朝鮮に侵攻、丙子の乱が起こりました。

仁宣王后は王族や両班たちとともに江華島に避難します。

しかし、翌年の1637年、仁祖が降伏して朝鮮は清に破れてしまいました。

降伏の一つの条件として、王子たちの人質があり、仁宣王后は鳳林大君とともに清に送られました。

仁宣王后は清で8年間、人質生活を送ります。

清で暮らしている時に、三女の淑明公主(1640年)と四女の淑徽公主(1642年)
そして、後の第18代王になる顕宗(1641年)が生まれています。

顕宗は異国の地で生まれた朝鮮唯一の国王です。

突然の世子嬪から王妃に

1645年、清が明を倒したため、人質は不要となりました。

そのため、2月に昭顕世子と愍懐嬪が人質から解放され帰国します。

帰国から2ヶ月後の4月に昭顕世子が突然、謎の死で亡くなりました。

そこで、急遽、鳳林大君とともに清から帰国しています。

6月、鳳林大君が仁祖の強引な命令で世子となり、仁宣王后も世子嬪になります。

世子嬪になってからは、六女の淑静公主(1646年)と七女の淑敬公主(1648年)が生まれました。

1649年、仁祖が逝去、鳳林大君が孝宗として即位すると仁宣王后は王妃に冊封されました。

仁宣王后の最後

1659年、夫の孝宗が逝去したため、息子の顕宗が即位しました。

仁宣王后は王大妃となりました。

1662年には、孝粛王大妃の称号をうけています。

それから12年後の1674年、仁宣王后は55歳で逝去、夫の孝宗の側に埋葬されました。

まとめ

仁宣王后は不幸にも、若い時に清での人質生活を送っています。

しかし、孝宗との間には多くの子供を授かるなど、孝宗から大事にされていたことが分かりました。

清からの帰国後は、大きな戦乱もなく、多くの娘に囲まれながら平和に暮らしたと思われます。

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