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イインジャ(李麟佐)の家系図【粛宗に滅ぼされた名門一族】

英祖に対してイインジャ(李麟佐)がなぜ乱を起こしたのか。

この記事では、彼の家系図をたどりながら、イインジャの乱の背景とその経緯を詳しく解説していきます。

イインジャの家系図

イインジャ(李麟佐)は第4代国王・世宗(セジョン)の10代目の子孫で、世宗の四男である臨瀛大君(イミョンテグン)の血を受け継いでいます。本名は李玄佐(イ・ヒョンジャ)です。

李麟佐の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<李麟佐の家系図>

イインジャは世宗から数えて10代目の子孫にあたります。

世宗 第4代国王
1代目子孫 臨瀛大君 世宗の四男
2代目子孫 英陽君 李涵
3代目子孫 烏城都正 李神孫
4代目子孫 豐陽都正 李春
5代目子孫 李夢祥
6代目子孫 李廷臣
7代目子孫/曾祖父 李應蓍 吏曹参判
8代目子孫/祖父 李雲徵 監司(道知事)
9代目子孫/父親 李弘德
10代目子孫 李麟佐

イインジャの一族は代々、南人派で名門の両班でしたが、祖母の父・権大運は領議政、妻の祖父・尹鑴は右贊成を務めるなど外戚も名門の一族でした。

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イインジャの一族の破滅

南人派の名家だったイインジャの一族は粛宗による2回の換局によりダメージを受け、最後は完全に失脚してしまいます。

庚申換局による失脚

1680年に実施された庚申換局により、南人政権が崩壊。南人派の名門であるイインジャの一族は冷や飯を食うことになります。

この庚申換局により、イインジャの妻の祖父・尹鑴は毒薬による死罪となっています。

甲戌換局による再失脚

1689年の己巳換局で南人派は政権に復帰しましたが、1694年の甲戌換局で再び追放されました。禧嬪張氏と南人派の横暴に業を煮やした粛宗が粛清を断行し、イインジャの祖父・李雲徵や外祖父・権大運は官職を奪われ流刑となります。

王族の血を引く名家ながら一族は没落し、当時まだ幼かったイインジャは、この体験を胸に後に「英祖の王統は正統ではない」と掲げて反乱を起こしました。

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李麟佐(イ・インジャ)の乱

英祖即位5年目の1728年3月、イ・インジャは少論急進派や南人派と結託してついに挙兵しました。「英祖は粛宗の子ではなく景宗を毒殺して王位を奪った」と訴え、仁祖の長男・昭顕世子の子孫である密豊君(ミルプングン)を担ぎ出します。

一時は清州城を攻略し勢いを増しましたが、英祖が編成した討伐軍に鎮圧され、首謀者のイ・インジャらは漢陽に送られて処刑されました。

イインジャが出るドラマ

イインジャを扱ったドラマには次の2作品があります。

テバク
ヘチ 王座への道

イインジャが主人公と言われるテバク

死んだとされた淑嬪崔氏の第一子が生きていたら?という仮説をもとにした作品です。イインジャを演じたのは演技力に定評のあるチョン・グァンリョルで、テバクの影の主人公とまで言われました。

史実を元にしていますが、かなりフィクションが織り交ぜられた作品です。

史実に忠実なヘチ

延礽君が世弟になり、英祖として即位する頃を扱った作品です。英祖の一番の危機として、李麟佐(イ・インジャ)の乱が扱われています。

まとめ

イインジャ(李麟佐)は王族の血を引く南人派の名門一族の出身でした。しかし、粛宗による換局で家族は完全に粛清され、名門一族は滅亡しています。

こうした環境で育ったイインジャは、自由に操れる王を立てるために反乱を起こしたと考えられます。

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