顕徳王后は世子嬪となり、後の国王・端宗を生みます。
しかし、産後に急変、翌日亡くなっています。
短命だった顕徳王后について、家系図からご紹介します。
顕徳王后の家系図
安東権氏の始祖は高麗王朝を建国する王建の片腕として活躍した豪族の權幸です。
安東権氏は王族の全州李氏に次で最も多くの科拳合格者を出した名門中の名門氏族です。
文科の合格者は3百数十名でその内10名がトップ合格と言われています。
<顕徳王后の家系図>
権氏は韓民国成立直後に安東権氏に統合され、現在では韓国最大の氏族集団となっています。
また、現存するもっとも古い族譜を持つ氏族としても知られています。
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顕徳王后はどんな王妃だったのか?
顕徳王后は文宗の3番目の世子嬪として選ばれました。
世子嬪のときに端宗を生みますが、可哀想に翌日に亡くなってしまいます。
「顕徳王后」は死後、王妃として追尊された称号です。
顕徳王后のプロフィール
生年:1418年3月12日
没年:1441年7月24日
享年:24歳
名前:不詳
氏族:安東権氏
父:権専(判漢城府事)
母:崔阿只(海寧府夫人)
夫:文宗
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顕徳王后の家族
顕徳王后は文宗との間に1男2女の子供をもうけました。
長男は後の第6代国に即位する端宗です。
端宗については>>端宗の家系図【権力闘争に巻き込まれた悲劇の幼き王】
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
夫 | 文宗 | 1414-1452 | 第5代国王 |
長女 | 不詳 | 1433-1433 | 早世 |
次女 | 敬恵公主 | 1436-1473 | 鄭悰の妻 |
長男 | 端宗 | 1441-1457 | 第6代国王 |
次女の敬恵公主は朝鮮王朝で最も美しい王女と言われました。
敬恵公主について詳しくは>>実在した敬恵王女はどんな王女だったのか?
顕徳王后の父母・兄弟姉妹
顕徳王后は2男4女の次女でした。
父:権専
母:崔阿只
弟:權自愼
弟:權自謹
姉:不詳 金永命の妻
妹:不詳 權山海の妻
妹:不詳 金令孫の妻
1456年、權自愼は母・阿只、成三問とともに端宗の復位を図ったことが発覚して、処刑されています。
また、父親の権専も連座で庶人に降格となっています。
顕徳王后の生涯
1418年、顕徳王后は権専の娘として生まれました。
1431年に王世子(後の文宗)の側室として、承徽の品階で王宮に入りました。
文宗については>>文宗の家系図【王妃に恵まれなかった薄幸な王】で詳しく紹介しています。
1433年頃には、長女を出産して良媛に昇進していますが、長女は幼くして亡くなっています。
1435年、次女の敬恵公主が生まれました。
1437年、2番目の世子嬪・純嬪奉氏が廃位されると、顕徳王后は3番目の世子嬪に冊封されています。
1441年に李弘暐(後の端宗)を生みますが、翌日に亡くなってしまいました。
顕徳王后の称号は、1450年夫文宗が王位に即位した後に追尊されたものです。
しかし、1457年に息子の端宗が魯山君に降格されると、連座で既に亡くなっている顕徳王后も庶人に降格されてしまいます。
名誉が回復されるのは、56年後の1513年、中宗の時代になってからです。
顕徳王后のお墓
顕徳王后は夫の文宗とともに、東九陵の顕陵(ヒョンヌン)に眠っています。
顕徳王后は当初、京畿道安山に埋葬され、文宗が即位すると昭陵に格上げされました。
しかし、端宗が復位事件で魯山君に降格されると、顕徳王后の墓は世祖が他の場所に移したと言われています。
1513年、最終的に中宗が顕徳王后の名誉を回復、現在は東九陵の顕陵に文宗とともに眠っています。
まとめ
顕徳王后は名門氏族に生まれ、側室として入宮、国王となる息子を生んでいます。
しかし、その23年の生涯は決して幸せなものではありませんでした。
顕徳王后が安らかな眠りにつけたのは、56年後に夫・文宗の隣に埋葬されてからと思われます。