東医宝鑑はホジュンが14年の歳月をかけて編纂した東洋医学のバイブルとも呼ばれる医学書です。
これには「透明になる方法」など、謎の文章が存在します。ここでは、東医宝鑑の謎の文章、編纂の背景や構成、日本への普及について詳しく解説します。
東医宝鑑とは|ホジュンが残した東洋医学の金字塔
東医宝鑑は、ホジュンが編纂した現代でも通用する朝鮮で最も評価の高い医学書です。
<東医宝鑑の外観>
何と1613年に初版が発行されてから、現代に至るまで重版が重ねられています。日本には江戸時代に伝わり、日本語版も発行されました。
2009年にユネスコの「世界記録遺産」に登録され、現在でも医療現場で活用されている超ロングセラーの医学書です。
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「東医宝鑑」には、「透明になる方法」や「幽霊を見る方法」など奇妙な記述があります。
たとえば「透明になる方法」の記述は
白犬膽和通草桂心作末蜜和爲丸服能令人隱形青犬尤妙本草
<引用元:東医宝鑑>
これはチャン・インスウ・ソク大学韓医大教授の論文によると、眼科疾患「眼中膿水」の治療法で、視界がぼやける症状を改善するものだったのです。
※眼中膿水:目の中が炎症して膿が溜まり、目の前がぼやけて見えなくなっていく眼の病気
「人の姿を隠すことができる」ではなくて、「人に眼の前の形状(膿)を見えないようにすることができる」という意味だったのです。
こうした一見奇妙にも思える記述が登場する背景には、当時の医学的知識や情報の不足が深く関係していると考えられます。
では、そもそも「東医宝鑑」とはどのような書物だったのでしょうか。その編纂の背景や構成について解説していきます。
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宣祖の時代は明の医学が主流でした。
朝鮮独自の病気には適さない部分が多くあり、薬も中国に依存する状況でした。朝鮮の環境に適した朝鮮の医学書が必要だったのです。
そこで、1596年、宣祖の命で「東医宝鑑」の編纂が始まり、ホジュンら名医たちが参加しました。
壬辰倭乱で一時中断されましたが、ホジュンは執筆を継続します。宣祖の死後、御医のホジュンは流罪となりますが、光海君がホジュンの編纂事業を支援しました。
1610年、14年の歳月をかけた東医宝鑑が遂に、完成。1613年、朝鮮国内で初版が刊行されました。
東医宝鑑の構成
東医宝鑑は中国及び朝鮮の医薬書86書を参考に朝鮮独自の医学が取り込まれ、理論より実用性を重んじた構成になっています。
その特徴は、各病名から索引できる構成で、基本学理から臨床にいたるまで実証主義にもとづいて記述されていることです。
序(全2巻)
内景篇(全4巻):内科に関する内容
外形篇(全4巻):外科に関する内容
難病編(全11巻):疫病、婦人科、小児科に関する内容
湯液編(全3巻):薬物に関する内容
鍼灸編(全1巻):鍼灸に関する内容
また、現代の解剖図と比べても遜色ない人体解剖図や臓器図が随所にでてきます。
<人体解剖図>
東医宝鑑の内容
東医宝鑑の内容は、東洋医学のバイブルと称されるなど、まさに医学の百科事典です。
内容は使いやすさを考えて、理論より実用性を重視した内容となっており、これが現代でも活用されている大きな理由です。
また、症状から処方を簡単に探すことができるなど、一般の庶民でも親しみやすい工夫が施されています。
朝鮮の薬材を中心とした現場重視の薬学であることも評価されている理由です。
東医宝鑑の日本への普及と翻訳
朝鮮で刊行された『東医宝鑑』は、その優れた内容が朝鮮通信使を通じて日本にも知られるようになりました。
実際に日本に伝わったのは1663年頃で、当初は貴重な書物として限られた人しか閲覧できませんでした。
徳川吉宗も医療の改善を目的に対馬藩を通じて献上を求め、1724年には日本版が刊行されました。
昭和50年前後には現代語訳も出版されましたが、省略や誤訳が多く課題が残りました。
近年では、2021年に誠心出版から原典に忠実なB5判ペーパーバック版が刊行され、より正確な理解が可能になっています。
完訳 東医宝鑑 内景篇・外形篇
菅原忠雄 (翻訳)
誠心出版
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まとめ
「東医宝鑑」の謎の文章も実は根拠のある事実の誤訳でした。
東洋医学のバイブルと呼ばれ、広く活用されている「東医宝鑑」ですが、「龍を妊娠させる方法」「愛を得る方法」「勇敢になる方法」など、現代でもまだ理解されていない謎の文章が数多く存在しています。