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ホジュンの実話【史実で知る朝鮮三大名医の真実の行跡】

ドラマ「宮廷医官への道」、「伝説の心医」で描かれたホジュンの史実とは?

賤民から御医にまでなったのは本当なのか?

ホジュンの実話を調べてみました。

 

ホジュンの実話

ホジュンの幼少時代については、詳しい記録はなく、生年月日も生まれた場所すら、正確なことは分かっていません。

確かな記録があるのは、王族の医療機関である内医院に入った頃からになります。

 

内医院に入る

ドラマではホジュンは科拳にトップの成績で合格しましたが、実はホジュンは科拳に合格していません

科拳の合格者名簿にホジュンの名前が記録されていないのです。

では、どのようにして内医院に入ったのでしょうか?

 

実は、推薦で内医院に入った

1568年頃、ホジュンは弘文館の高官だった副提学・柳希春(ユ・フィチュン)の病を診ていました。

柳希春は自身の病だけでなく、妻や知人の病もホジュンに診てもらうなど、ホジュンに絶対的な信頼を寄せていました。

 

そして、柳希春が吏曹判書の洪昙(ホンダム)にホジュンを内医院に推薦するようにお願いしたのです。

このことは、柳希春が1567年から1577年にわたって書いた眉巖日記に記録されています。

 

1568年と言えば、ホジュンは30歳の頃です。

このことから、ホジュンは30歳のときには医者としてかなりの名声と実力があったことが分かります。

また、庶子の低い身分で内医院へ推薦されるとは、人並み外れた努力があったと推測されます。

 

ドラマでは、推薦で合格しようとして、師匠に破門されたエピソードとしてアレンジされていました。

 

恭嬪金氏が亡くなる

1577年に恭嬪金氏が25歳で逝去しています。

ドラマではホジュンが恭嬪金氏の侍医になりますが、史実では恭嬪金氏を治療した記録はありません。

 

1577年5月1日の宣祖修正実録には、恭嬪金氏が亡くなったことが記録されています。

恭嬪 金氏卒。ー<略>ー宮中有仇我者,取吾履隻, 詛呪病我
<宣祖修正実録1577年5月1日抜粋>

恭嬪金氏が亡くなった。ー<略>ー宮中に私を恨むものがいる、私の履物を取っていき、私が病気になるように呪詛している

更に、恭嬪金氏はもし自分が亡くなったら、呪詛を調べなかった王様の責任であるが、「私は憎んだり、恨んだりはしない」と述べたと記録されています。

 

ドラマでは、仁嬪金氏が恭嬪金氏の履物を奪って呪詛を指示しています。

実録の記録を上手く取り込み、ホジュンの治療と絡ませたようです。

 

世子の天然痘を治療する

内医院に入ったホジュンはその実力で次々と功績をあげていきます。

そして大きなターニングポイントを迎えます。

 

赤い官服の正三品堂上に昇格

1590年に当時、世子であった光海君の天然痘を治療したことです。

この功績により、ホジュンは通政大夫(正三品堂上相当)に昇格しています。

 

正三品堂上から、あの赤い官服を着ることができます。

そして、正三品堂上以上になると、退職後には終身年金の恩給が与えられ、子や孫は科拳を受けずに官職に就けるように優遇されます。

青い官服と赤い官服では歴然とした差がありました。

 

宣祖と共に義州に避難

1592年に壬辰倭乱が起こり、日本軍が朝鮮に侵攻してきました。

各地で日本軍に朝鮮軍が破れ、日本軍は王都・漢城(ハンソン)に迫ってきました。

 

そこで、当時の王・宣祖は光海君を後継者に指名して、自らは義州に避難することにします。

宣祖と同行することに難色を示すものが多い中、ホジュンは宣祖に追従することを決意しています。

ドラマでは、ホジュンは平壌城を死守する北海君とともに平壌に残っていました。

 

信城君が亡くなる

信城君は母の仁嬪金氏と同様に宣祖から大変な寵愛を受けていました。

東人派の反対により無くなりましたが、一時は、世子候補に上がるほどでした。

 

宣祖が義州に避難するときも、信城君は仁嬪金氏と一緒に同行していました。

しかし、1592年11月5日、義州に避難する途中で、信城君は病気で亡くなってしまいます。

享年14歳でした。

史実では、ホジュンは宣祖に同行しており、信城君を治療したかもしれません。

 

念願の御医になる

1600年にホジュンは功績が認められて、念願の御医(オイ)となります。

御医は王の主治医であり、ホジュンは宣祖の健康管理から治療に重大な責任を負う立場になりました。

 

宣祖が逝去、流刑になる

1608年に宣祖が逝去すると、御医であったホジュンは、その責任を取って流刑になります。

光海君は反対しましたが、大臣達に押し切られました。

光海君日記には、「許浚を門外に出送する」とだけ書かれており、どこに流配されたのかは分かりません。

 

しかし、翌年には光海君によって呼び戻され、光海君の御医として復活します。

世子の頃から診ていたホジュンに光海君が大きな信頼を寄せていた証拠です。

 

復位して「東医宝鑑」を完成させる

御医に復活したホジュンは手掛けていた医学書「東医宝鑑」の制作に打ち込みます。

東医宝鑑は、1596年に先代の王・宣祖により編遷を命じられていた医学書でした。

 

そして、遂にホジュンは1610年に「東医宝鑑」全25巻を完成させました。

東医宝鑑は、医学で先行する中国が「医学書の欠点を補完した天下の宝」と絶賛するほどのものでした。

 

驚くことに、400年以上経った現在でも実用書として広く世界で使用されています。

東医宝鑑については、おもしろい話が。。>>ホジュンが編纂した東医宝鑑【医書とは思えない謎の文章とは】

 

ホジュンが亡くなる

1615年、ホジュンが亡くなりました。

享年77歳でした。

ホジュンがどこで、どのように亡くなったのかは、全く記録がありません。

 

遂に、念願の正一品になる

ただ、死後、光海君はその功績を評価して、流罪のときに取り上げた輔国崇禄大夫(正一品相当)と陽平府院君の称号を再び贈りました。

庶子で身分の低かったホジュンが、数々の苦難を乗り越え、遂に念願の正一品まで上り詰めたのです。

 

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ドラマと史実の違い

ドラマは史実をベースに制作されていますが、何点か創作された部分があります。

・師匠のユ・ウィテは架空の人物
・師匠を解剖した記録はない
・科拳に主席合格は嘘

説明していきますね。

師匠のユ・ウィテは架空の人物

ホジュンの医術の師匠であるユ・ウィテが実在した記録はありません。

従って、ホジュンとユ・ウィテが関連する話は全てフィクションになります。

 

実は、ホジュンの師匠はユ・ウィテに打ち負かされた内医院の御医であるヤン・イェスではないかと言われています。

ヤン・イェスが亡くなるまで、朝鮮王朝実録に度々、ホジュンとヤン・イェスの二人が登場していますが、その時には、必ず、ヤン・イェスについて先に述べられています。

 

こうした点もヤン・イェスが師匠であった裏付けとなっています。

ヤン・イェスはドラマでは悪役ですが、実際は内医院に実在した伝説的な名医でした。

 

師匠を解剖した記録はない

ドラマの師匠は架空の人物ですが、ホジュンが人を解剖した記録はもちろんありません。

しかし、ホジュンが解剖したのでは?

と考えられている理由は、東医宝鑑に記載された身体の内蔵を示した図(身体蔵附図)です。

それは、実際に見た人でしか書けないような正確なものです。

<身体蔵附図>

しかし、ホジュンは東医宝鑑を作製するために多くの医術書を参考にしており、その中には中国で書かれた解剖に関する書もありました。

また、ホジュンが生きた時代には日本軍の侵略戦争(壬辰倭乱)があり、多くの兵士が死傷しました。

ホジュンも戦場で戦傷者の治療あたっており、そのときに多くの亡くなった兵士を格好の試験体として診た可能性があります。

 

科拳に首席合格は嘘

ドラマではホジュンは2回目の科拳に首席で合格していますが、これは事実ではありません。

実は、ホジュンは当時の学者・柳希春(ユヒチュン)の推薦で内医院に入っています。

 

柳希春の日記に人事を担当する吏曹判書(イジョパンソ)のホン・ダムにホジュンを推薦したと書かれています。

ドラマでも一度、権力者の推薦を受けますが、史実を少し考慮しているようです。

 

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ドラマに登場した実在した人物

ドラマ「ホジュン~宮廷医官への道~」に登場する人物で実在した人物は次のとおりです。

実在した人物が数多く登場しています。

役名 実在したモデル 備考
ホジュン 許浚 両班の庶子
イ・ダヒ 安東金氏 ホジュンの妻
ホ・ギョム 許謙 ホジュンの息子
ソン氏 霊光金氏 ホジュンの母
ホ・リュン 許碖 ホジュンの父、武官
ヤン・イェス 楊禮壽 御医、実際の師匠
宣祖 宣祖 第14代国王
光海君 光海君 第15代国王
嬪宮柳氏 嬪宮柳氏(廃妃柳氏) 光海君の正室
恭嬪金氏 恭嬪金氏 宣祖の側室、光海君の母
イェジク 金礼直 恭嬪の弟
仁嬪金氏 仁嬪金氏 宣祖の側室
信城君 信城君 仁嬪の息子
仁穆王后 仁穆王后 宣祖の継室
永昌大君 永昌大君 仁穆王后の息子

 

まとめ

ドラマ「ホジュン」で描かれたエピソードの多くは史実をベースにした創作でした。

しかし、ホジュンが貧しい賤民から内医院の頂点である御医になったことは事実でした。

 

また、ホジュンの人生はドラマほど波乱にとんだ人生ではなかったかもしれません。

でも、自身が病に侵され亡くなる直前まで粛宗の治療にあたるなど、本当の心医であったことは間違いありませんでした。

 

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