ホジュンは実在した名医なのか?
妻のダヒも実在した人物?
ドラマの疑問を解消するため、ホジュンの実話を徹底調査しました。
ぜひ、記事を読んでモヤモヤした疑問を解消して下さい。
ホジュンは実在した名医
ホジュン(許浚)は第14代国王・宣祖(ソンジョ)の主治医を務めた実在した名医です。
ホジュンは1539年に武官である父・許碖(ホ・リュン/ロン)と妾の母・霊光金氏の間に生まれました。
ホジュンのプロフィール
庶子の身分だったホジュンは必死で医術を学び、内医院に入って功績を重ね、遂に念願の御医となります。
ホジュンの功績は朝鮮王朝実録の「宣祖実録」と「光海君日記」で見ることができます。
名前:許浚(ホジュン)
生年:1539年
没年:1615年
享年:77歳
出身地:不明(諸説あり)
本貫:陽川許氏
字:清源
お墓:京畿道坡州市
実在したホジュンの家族
関係 | 名前 | 読み方 | 備考 |
祖父 | 許琨 | ホ・ゴン | 武官 |
父 | 許碖 | ホ・リュン/ロン | 龍川府使(武官) |
母 | 霊光金氏 | ー | 妾 |
兄 | 許沃 | ホ・オク | |
弟 | 許澂 | ホ・ジン | |
本人 | 許浚 | ホ・ジュン | 庶子 |
妻 | 安東金氏 | ー | 高官の娘 |
子供 | 許謙 | ホ・ギョム | 坡州牧使(従三品) |
父親は名門氏族の出身で許碖であることは間違いないようですが、母親の詳しい記録はありません。
当時の女性には名前の記録はなく、本貫と名字のみ記録されています。
母親は密陽孫子または一直孫氏の氏族という二つの説があります。
ドラマには出てきませんが、ホジュンには二人の兄弟がいました。
兄はホ・オク、弟はホ・ジンといい、兄は母親が違う異母兄弟です。
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ホジュンが実在した証拠
ホジュンが実在した証拠は、朝鮮王朝実録の「宣祖実録」に70回以上の記録があることからも分かります。
しかし、当初、一族の族譜には記録がなく、ホジュンの死後135年経った1750年に初めて、族譜にホジュンの名が登場しています。
族譜に追記されたホジュン
韓国には族譜(チョッポ)と呼ばれる一族の家系図があります。
ホジュンは最初、陽川許氏の族譜にすら記録されていませんでした。
それは、ホジュンが妾の子だった為で、1750年以降の族譜にホジュンの名が初めて登場します。
その族譜には、庶子「浚」の名前が追加され、合わせて
「御医 扈聖功臣 崇禄陽平君贈輔国 撰東医宝鑑 夫人安東金氏」
<許浚の族譜より>
と添え書きされています。
添え書きには、
・扈聖功臣を受けたこと
・陽平君に封じられたこと
・東医宝鑑を執筆したこと
・夫人が安東金氏であること
が記載されています。
扈聖功臣とは、壬辰倭乱のときに宣祖が義州に行くのに付き添い、手柄のあった人に授けられたものです。
しかし、国王の御医まで努めて功績を残し、不滅の名書「東医宝鑑」を作成したにも関わらず、この程度の記録しか残っていません。
最後には両班になりましたが、庶子である事実は変わらない、韓国における身分制度の厳しさを物語っています。
ホジュンの家系については>>ホジュン(許浚)の家系図【謎の多い伝説の名医の家系とは】 で詳しくご紹介しています。
朝鮮王朝実録のホジュンの記録
朝鮮王朝実録は初代太祖から第27代純宗までの519年間の歴史を記録した歴史書です。
朝鮮王朝時代の歴史書としては真実性と信憑性が非常に高いと評価されています。
この実録にホジュンが初めて登場するのは1575年の宣祖実録です。
そこには、
名醫安光翼、許浚入診上脈, 則上比前加瘦, 脾胃脈甚弱, 又頗煩熱, 喜食生冷, 開戶引風云<宣祖実録1575年2月15日より>
と記録されています。
その後も、ホジュンの名は朝鮮王朝実録にたびたび登場して、王の信頼が厚かったことが分かります。
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ホジュンの実話
ホジュンは内医院に入る以前の記録は全くありません。
確かな記録が残っているのは、王宮の医官になってからです。
実は、ホジュンは科拳を受けていません。
当時、名声を得ていたホジュンは高官の家族を治療したことで、その腕を見込まれ内医院に推薦されたのです。
内医院に入ったホジュンは王族の病を治して次々と功績を上げていきます。
そして、1600年にホジュンは念願の御医となりました。
1608年、宣祖が逝去して、流刑となりますが、光海君に呼び戻されて、あの「東医宝鑑」の編集に没頭しました。
1610年に「東医宝鑑」全25巻を完成させます。
宣祖に制作を依頼されてから14年の歳月が流れていました。
その5年後の1615年、ホジュンは人知れず亡くなりました。
ホジュンの詳しい実話については>>ホジュンの実話【史実で知る朝鮮三大名医の真実の行跡】を御覧ください。
東医宝鑑は実在する医書
東医宝鑑(トンイボガム)はホジュンが14年の歳月をかけて、1610年に完成させた医書です。
当時の医書は明のものが主流であり、朝鮮独自の病気には適さず、薬も中国に依存する状況でした。
そこで、1596年に宣祖は、ホジュン達に朝鮮独自の医学書の作成を命じたのです。
現在でも東洋医学のバイブルと呼ばれる「東医宝鑑」ですが、実は「透明になる方法」など、不可解な謎の文章が存在しています。
詳しくは>>ホジュンが編集した東医宝鑑【医書とは思えない謎の文章とは】
ホジュンの嫁のダヒは実在?
ホジュンに妻はいましたが、イ・ダヒではなかったようです。
実際の記録に残っている家系図によると、ホジュンの妻は安東金氏(アンドンキムシ)と記載されています。
女性の場合は、名前は家系図に記載されないので名字しか分かりません。
「安東」が本貫(一族の発祥地)、「金」が姓です。
つまり、名字がドラマに登場するイ氏ではなくキム氏ということで別人です。
安東金氏は高麗建国の功臣である金宣平を始祖とする朝鮮では名門中の名門の家系です。
朝鮮王朝の後期には外戚として政治の実権を握り、勢道政治を行った歴史的にも有名な氏族です。
どこで、ホジュンと知り合ったかは分かりませんが、妻が名門の両班であったことは間違いないようです。
ホジュンが高麗建国の功臣である許宣文の子孫で名門・陽川許氏の出身、妻がやはり両班の名門・安東金氏の出身でした。
ホジュンが嫡子(本妻から生まれた子)であれば、両班の名門氏族同士の結婚だったのですね。
ホジュンの息子ギョムはどうなった?
ホジュンには実在する一人息子のギョムがいました。
ギョムは文官となり坡州(パジュ)、今の京畿道北西部で牧使(モクサ)を務めました。
牧使とは州に設置された役所を取り仕切る役人で、品階は正三品の上級地方文官職です。
ギョムは清州韓氏と結婚したと記録されています。
ホジュンの葬儀のときに息子が不在?
ドラマ「ホジュン~宮廷医官への道」でホジュンの葬儀のときに息子のギョムがいなかったことに気づきましたか?
最終回を見た多くの人が不思議に思われました。
地方に赴任していて不参加・・・?
いいえ
実はギョムは葬儀に参加していました。
30代になったギョムを同じ俳優が演じるのには無理があると考え、葬儀の場面では俳優を変えていたんです。
撮影の前に「ギョム役の○○です」と挨拶があったと、ダヒ役のホン・チュンミンが後に語っています。
視聴者には分かりませんよね。。。
もし、もう一度、その場面を見る機会があったら探してみて下さい。
もちろん、リメイク版の「ホジュン~伝説の心医」では、ハッキリとギョムが同じ俳優で葬儀に参加していました。
ユ・ドジは実在した人物?
秀才的な医官ユ・ドジは創作された架空の人物です。
ユ・ドジを強くすることで、生涯に渡るホジュンのライバルとしたそうです。
確かにライバルがいたほうが、物語が波乱判女となり、面白みが増します。
実際、ホジュンとドジの出世レースは見ものでした。
最終的にドジは内医院の内医(正三品堂下官)ですが、ホジュンは内医院の御医(正一品)にまで上り詰めます。
実は、正三品でも堂下官と堂上官では雲泥の差があります。
堂上官は赤い官服を着て、「ヨンガム」と呼ばれ、王様との議論にも参加できる立場になります。
ホジュンが内医院の御医になったときは、正三品堂上官でしたから、この時点でホジュンとヨジの差は決定的になりました。
イェジンは実在した人物?
イェジンは創作された架空の人物です。
脚本家のチェ・ワンギュは全64回の物語を作るにあたり、ホジュンの出来事だけでなく、恋愛要素も重要と考えました。
ホジュンとダヒだけで60話以上を引っ張るには無理があり、そこでイェジンを登場させたそうです。
しかも、イェジンは途中で殺される予定でしたが、人気が出たため最後まで登場することなります。
最終回で、イェジンと少女が河原を歩くシーンは脚本家・チェ・ワンギュのお気に入りのシーンだそうです。
イェジン役は最初、イ・ヨンエだった
イ・ビョンフン監督が考えたイェジン役は、最初はチャングムのイ・ヨンエだったそうです。
しかし、スケジュールが合わず、当時はほとんど名前も知られていないファン・スジョンになりました。
韓国の古典的な女性美が決め手だったそうです。
これが結果的には大正解で、ファン・スジョンはイェジン役で一躍大スターになっています。
ホジュンはイェジンを愛していたのか?
もともとのシナリオにはホジュンとイェジンのラブストーリーが存在していました。
しかし、偉大な医師になるという目標のために、最後まで心を打ち明けない設定に変更されました。
ホジュンを演じたチョン・グァンリョルもホジュンはイェジンを心の底から愛していたとインタビューで述べています。
ドラマ「ホジュン」はどこまで実話?
ドラマ「ホジュン」は史実をベースに、多くのエピソードが創作されたものです。
しかし、内医院に入る前に関しては、詳しい資料は全くありません。
主要な人物である師匠のユ・ウィテ、ライバルのユ・ドジ、医女のイェジンなどは架空の人物です。
また、師匠の解剖、科拳の主席合格、恭嬪の兄弟の治療(手首切断の危機)などもフィクションです。
しかし、庶子で身分の低かったホジュンが、数々の苦難を乗り越え、念願の正一品まで上り詰めたことは間違いのない事実です。
実在したホジュンの死因とお墓
ホジュンは東医宝鑑を1613年に完成させた2年後の1615年に亡くなりました。
ホジュンの死因
ホジュンは1615年に77歳で亡くなっていますが、死因は不明です。
どこで、どのように亡くなったのか、全く分かっていません。
ただ、77歳なので当時としてはかなり高齢だったことは確かです。
死因も亡くなった場所も分かっていませんでしたが、最近になってホジュンのお墓が発見されています。
歴史家が発見したホジュンのお墓
1991年9月30日に歴史家の李亮載が韓国と北朝鮮の非武装中立地帯でホジュンのお墓を発見しました。
場所は、京畿道坡州市です。
発見当初は、誰かに盗掘されたあとで、墓碑、文人石、上石、香炉石などが周辺に散らばった状態で原形をとどめていませんでした。
しかし、摩耗した碑文の中に族譜(チョッポ)に添え書きされている「扈聖功臣 」、「陽平君」、「許浚」などの文字が見られたこと。
散らばっていた墓碑、文人石、上石、香炉石などが、陽川許氏族譜と一致したことからホジュンのお墓と断定されました。
陽川許氏族譜とは、陽川許氏一族の系図を中心に重要なことが書かれた文書です。
<ホジュンのお墓>
お墓は二つ寄り添うようにあり、左がホジュン、右が妻のものではないかと言われています。
また、後方にある1基がホジュンの母親のものと推定されます。
まとめ
ホジュンは宣祖の時代に実在した名医でした。
東洋医学のバイブルとして、現在も使われている東医宝鑑を編集した人物でもありました。
妻のダヒは名前は違いますが、両班出身の名門の女性で、一人息子のギョムも文官として出世していました。
ドラマ「ホジュン」は実話をベーズに、架空の人物であるイェジンやユ・ドジを加えて創作された時代劇の歴史に残る秀悦の物語です。