東医宝鑑はホジュンが編纂した東洋医学のバイブルとも呼ばれる医書です。
この東医宝鑑には「透明になる方法」など、謎の文章が存在します。
ここでは、謎の文章も含めて、東医宝鑑について詳しくご紹介していきます。
東医宝鑑とは
東医宝鑑は、ホジュンが編纂した現代でも通用する朝鮮で最も評価の高い医書です。
何と1613年に初版が発行されてから、現代に至るまで重版が重ねられています。
日本には江戸時代に伝わり、日本語版も発行されました。
ホジュンが14年の歳月をかけてまとめた「東医宝鑑」は全25巻から構成されています。
内容は使いやすさを考えて、理論より実用性を重視した内容となっており、これが現代でも重宝されている大きな理由です。
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東医宝鑑に実在する謎の文章
東洋医学のバイブルと呼ばれ、今でも十分に通用する医書の「東医宝鑑」ですが、実は不可解な謎の文章が実在しています。
それは、「透明になる方法」「幽霊を見る方法」「龍を妊娠させる方法」「愛を得る方法」「勇敢になる方法」などが記載されています。
例えば、透明になる方法としては、
白犬膽和通草桂心作末蜜和爲丸服能令人隱形青犬尤妙本草
白い犬の胆嚢に、通草と桂心を混ぜて粉末にしたものに蜂蜜を混ぜて丸薬として服用すれば、人の姿を隠すことができる。青い犬を用いればさらによい。(引用元:東医宝鑑より)
こうした記事に関しては、21世紀での感覚で当時の記事を評価してはいけないとか、わざと完成させないために突拍子もないことを書いた、とか諸説あります。
しかし、実はこれはチャン・インスウ・ソク大学韓医大教授の論文によると、真面目な眼科疾患である眼中膿水を治療する方法だったのです。
眼中膿水とは目の中が炎症して膿が溜まり、目の前がぼやけて見えなくなっていく眼の病気です。
現在の結膜炎のようなものでしょか。
従って、記載された薬を服用すると、「人の姿を隠すことができる」ではなくて、人に眼の前の形状(膿)を見えないようにすることができるという意味だったのです。
こうした間違いが生まれたのは、東医宝鑑をハングルに訳したときの誤訳の影響が大きいといいます。
おそらく、他の「幽霊を見る方法」「龍を妊娠させる方法」なども同じような誤訳によって生じた間違いではないかと推定されます。
東医宝鑑はホジュンが14年の歳月を費やして作り上げた漢方医のバイブルです。
やはり、突拍子もないことが書かれているはずはありませんね。
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東医宝鑑の内容
東医宝鑑の内容は、東洋医学のバイブルと称されるなど、まさに医学の百科事典です。
更に、中国の医書に朝鮮独自の医学を取り込んで、使い易さと実用性を考えて編纂されています。
症状から処方を簡単に探すことができ、一般の庶民でも使いやすいことが評価され、現在でも東洋医学のバイブルとして使われています。
記載されている薬材の90%が朝鮮で取れる薬材を採用している点も実用的と評価される理由です。
ホジュンが生涯をかけて編纂した東医宝鑑は韓国医学の集大成でした。
ホジュンについて詳しく知りたい方は>>ホジュンの家系図【謎の多い伝説の名医の家系とは】をご覧ください。
ホジュンが東医宝鑑を編纂した経緯
東医宝鑑作成の背景
宣祖の時代は明の医学が主流でした。
そのため、朝鮮独自の病気には適さない部分が多くあり、薬も中国に依存する状況でした。
朝鮮の環境に適した朝鮮の医学書が必要だったのです。
そこで、宣祖はホジュン達に朝鮮独自の医学書の作成を命じました。
東医宝鑑作成の過程
1596年、東医宝鑑作成の王命が宣祖より出されました。
そこで、内医院に編纂局が設置され、許浚、楊礼寿、李命源、鄭碏、金応鐸、鄭礼男ら一流の医官が編纂に取り組みました。
翌年、豊臣秀吉の朝鮮侵略による壬辰倭乱により作業は中断されますが、許浚は編纂を諦めませんでした。
1607年に宣祖が亡くなると、御医のホジュンは責任を問われて流罪となりますが、次王の光海君がホジュンの編纂事業を支援しました。
そして、幾多の困難を乗り越えて、1610年、実に王命から14年の歳月をかけて東医宝鑑が完成しました。
1613年、遂に光海君のときに東医宝鑑の初版本が朝鮮国内で刊行されています。
東医宝鑑の構成
東医宝鑑は中国、朝鮮の医薬書86書を参考に朝鮮独自の医学が取り込まれ、理論より実用性を重んじた内容と構成になっています。
その特徴は、各病名から索引できる構成で、基本学理から臨床にいたるまで実証主義にもとづいて記述されていることです。
また、現代の解剖図と比べても遜色ない人体解剖図や臓器図が随所にでてくることです。
序(全2巻)
内景篇(全4巻):内科に関する内容
外形篇(全4巻):外科に関する内容
難病編(全11巻):疫病、婦人科、小児科に関する内容
湯液編(全3巻):薬物に関する内容
鍼灸編(全1巻):鍼灸に関する内容
東医宝鑑の日本への普及
朝鮮で東医宝鑑が発行されると、その素晴らしさはすぐに朝鮮通信使を通して日本にも伝わりました。
しかし、実際に東医宝鑑が日本に持ち込まれたのは1663年頃と言われています。
当初は希少な本のため、閲覧できるのはごくわずかな人のみでした。
徳川吉宗も献上を望んだ東医宝鑑
徳川吉宗は疫病の流行で多くの人が亡くなる日本の医療レベルに危機感をいだき、朝鮮との窓口である対馬藩に東医宝鑑の献上を要求しました。
そして、1724年に日本版の東医宝鑑が発行されています。
東医宝鑑の日本語訳
昭和50年前後に多くの現代語訳の東医宝鑑が発行されています。
しかし、その内容は省略と誤訳が非常にものでした。
最近(2021年)、内容を可能な限り原本を忠実に再現したB5サイズのペーパーバック版が誠心出版より出版されています。
完訳 東医宝鑑 内景篇・外形篇
菅原忠雄 (翻訳)
誠心出版
まとめ
「東医宝鑑」の謎の文章も実は根拠のある事実の誤訳でした。
実用的で東洋医学のバイブルと呼ばれる「東医宝鑑」ですが、現代でもまだまだ、理解されていない部分もあるようです。