ホジュンは本当に実在したのでしょうか?
この記事では、史実に基づき、族譜や実録の記録、功績とその影響、そしてドラマとの違いを詳しく解説します。
ホジュンは実在した名医だった
ホジュンが実在したことは、族譜(チョッポ)や実録といった史料によって明確に裏付けられています。
・宣祖実録に70回以上の記録がある
韓国には族譜(チョッポ)と呼ばれる一族の家系図がありますが、ホジュンは陽川許氏の族譜にその名が記録されています。
また、ホジュンは朝鮮王朝実録の宣祖実録に70回以上、登場しています。朝鮮王朝実録は、韓国では真実性と信憑性が非常に高いとされる正式な歴史書です。
こうしたことから、ホジュンが実在した人物であることは間違いありません。
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陽川許氏の族譜には、ホジュンの名前とともに、次のことが「添え書き」されています。
<族譜のホジュンの名「浚」と添え書き>
「御医 扈聖功臣 崇禄陽平君贈輔国 撰東医宝鑑 夫人安東金氏」
<許浚の族譜より>
この添え書きの内容は、次のとおりです。
・扈聖功臣を受けたこと
・陽平君に封じられたこと
・東医宝鑑を執筆したこと
・夫人が安東金氏であること
※扈聖功臣:壬辰倭乱で手柄のあった人
実は、ホジュンは、最初、妾の子だった為、陽川許氏の族譜に記録がありませんでした。
彼の名が族譜に登場するのは、亡くなってから135年後の1750年以降のことです。
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実録に、ホジュンが初めて登場するのは、1575年の宣祖実録のときです。
そこには、
名醫安光翼、許浚入診上脈, 則上比前加瘦, 脾胃脈甚弱, 又頗煩熱, 喜食生冷, 開戶引風云<引用元:宣祖実録1575年2月15日抜粋>
と記録されています。
その後も、ホジュンの名は朝鮮王朝実録に何度も登場しており、王の信頼の厚さが確認できます。
ホジュンの人物像
賤民というハディがあったホジュンでしたが、必死で医術を学び、内医院に入って功績を重ね、遂に念願の御医となります。
彼が内医院の優秀な医員に負けない医術を持っていたのは、数え切れない現場での治療経験の積み重ねによるものでした。
名前:許浚(ホジュン)
生年:1539年
没年:1615年
享年:77歳
出身地:不明(諸説あり)
本貫:陽川許氏
字:清源
お墓:京畿道坡州市
ホジュンの功績
ホジュンの功績は朝鮮王朝実録の「宣祖実録」と「光海君日記」で見ることができます。
王族の侍医として活躍
内医院に入ったホジュンは、王族や高官の診察・治療を任され、第14代王・宣祖の信頼を得ると、侍医として重用されました。
1590年には、世子・光海君の天然痘を治療したこと、彼は正三品堂上にあたる「通政大夫」に昇進しています。
朝鮮医学の集大成「東医宝鑑の完成」
ホジュンの最大の功績は、朝鮮医学の集大成「東医宝鑑」を完成させたことです。
14年の歳月をかけて完成させた東医宝鑑(トンイボガム)は、病気の原因や治療法、予防などを整理した実用的な医学書で、朝鮮だけでなく中国や日本でも広く読まれました。
ドラマと史実の違い
ドラマ「ホジュン」は、ホジュンの生涯を史実をベースに架空の人物を加え、フィクションを盛り込んだ作品です。
特に、次の点が史実と大きく異なります。
・ユ・ウィテ、ドジ、イェジンは架空の人物
・ホジュンが師匠を解剖した記録はない
・科拳には推薦で合格(主席合格していない)
史実で欠落した部分は、創作のエピソードで脚色されていますが、ホジュンの医術に対する信念や志はドラマも史実も変わりません。
ホジュンの現在医療への影響
現在の韓国では、ホ・ジュンは「医聖(医学の聖人)」と称され、国民から深く尊敬されています。
彼が編纂した医学書「東医宝鑑」は、2009年にユネスコの「世界記録遺産」に登録され、現在でも医療現場で活用される貴重な医学書です。
また、ホジュン記念館(ソウル)にはホジュンの功績が集められ、ホジュンの功績を後世に伝えています。
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ホジュンについては、家系図、実話、東医宝鑑、妻ダヒをテーマに別記事でご紹介しています。更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。




まとめ
ホジュンは、実録や族譜に数多く記録が残る朝鮮時代に活躍した実在の医師でした。
彼は、賤民の身分で医術を学び、内医院で功績を上げて、最後は御医にまで上り詰めました。
ホジュンが編纂した「東医宝鑑」は朝鮮医学の集大成として評価され、現在でも貴重な医学書として活用されています。
ドラマでは一部フィクションが加えられていますが、ホジュンの医術にかける信念と功績は史実に裏付けられたもので、現代の韓国では「医聖」として称され、多くの人々に尊敬され続けています。