Googleのアドセンス広告を表示しています

奇皇后のタルタルの史実での最後【戦死ではなく賜薬による死罪】

ドラマ「奇皇后」で一躍名のしれたタルタルですが、タルタルのモデルは実在したトクトです。

ドラマではタルタルは最後に戦死します。

しかし、

史実ではトクトの最後は賜薬による死罪でした。

 

史実のタルタルは無慈悲な最後

実は、タルタルのモデルとなったトクトの最後は死罪だったのです。

しかも、死罪を命じたのは、あのタファンのモデルである皇帝トゴン・テムルでした。

 

トゴン・テムルは功績を上げて、次第に権力を独占するトクトに恐怖に感じていました。

そこで突然、1354年に紅巾の乱の鎮圧に向かうトクトの職務を解任、身柄を確保してしまいます。

トゴン・テムルはトクトを流刑とし、流刑地への護送中のトクトに賜薬による自害を命じました。

 

自身を支えてくれたトクトをトゴン・テムルは無慈悲にも死罪にしたのです。

トクトは亡くなり、トゴン・テムルは希望通りに権力を回復します。

 

しかし、トクトという名将の求心力を失った元の軍隊は次第に弱体化していきます。

これが明の侵略を許し、元の滅亡を早めていく直接の要因となりました。

 

【PR】スポンサーリンク

元王朝滅亡のキッカケとなる紅巾の乱

トクトが最後に鎮圧に向かった紅巾の乱(こうきんのらん)についてご紹介します。

紅巾の乱とは、1351~1366年にモンゴル民族の元王朝を倒して、漢民族の明王朝が建国するきっかけとなった農民の反乱です。

 

タルタルのモデル・トクトが10万の軍を率いて最初に鎮圧に向かったのは、1351年8月に徐州を占拠、芝麻李が自称王を名乗った反乱でした。

トクトはこの乱を鎮圧して功績をあげます。

しかし、1354年に再び反乱が発生、トクトはこの乱の鎮圧に向かう途中で身柄を確保されてしまいました。

 

紅巾の乱の背景

紅巾の乱が起こった背景には、タルタル(トクト)の政策が深く関連していました。

1349年に朝廷に呼び戻されたトクトは、寺院建設などで苦しくなった財政を立て直すために新しい紙幣の発行を大量に行いました。

さらに、財政難のなか、毎年、洪水で氾濫する黄河の大改修も命じています。

 

この結果、

乱発した紙幣は不換紙幣化してインフレが進行、農民の暮らしはどんどん苦しくなっていきました。

また、治水工事に徴発された農民の負担は増すばかりで怒りは次第に強まっていきました。

 

この機を利用したのが白蓮教徒などの宗教的結社で、韓山童が中心となり農民を煽って反乱を起こしました。

これが、各地での反乱勃発の起爆剤となりました。

つまり、トクトの政策が紅巾の乱のキッカケとなったのです。

 

【PR】スポンサーリンク

家系図で知るタルタルの人物関係

ドラマでタルタルはペガンの甥でしたが、実在したトクトもバヤンの甥にあたります。

史実では、トクトは幼少の頃にバヤンの養子になっています。

バヤン(伯顔)はペガンのモデルになった高麗の武将です。

<トクトの家系図>

 

実在したタルタルのモデル

実在したタルタルのモデルは政治家であり武将であったトクトです。

トクトの父親マジャルタイは元の第3皇帝カイシャンに大変信頼された武将でした。

 

トクトのプロフィール

元史には

「国家のために奉仕し、非常に人間的でおごりがない大臣である。お金や財産に執着せず、色恋は好まず、徳と礼を重んじた。」

と記録されています。

<プロフィール>
漢字表記:元史は脱脱、清代以降は托克托
脱脱の韓国語読みがタルタル
生年:1314年
没年:1355年
部族:メルキト族
父親:マジャルタイ(馬札児台)
長男:哈剌章
次男:三宝奴
伯父(父の兄):バヤン (伯顔)

 

トクトの生涯

トクトの生涯を出来事も合わせて整理しました。

出来事
幼少時 バヤンの養子になる
1328年 皇太子のアリギバ(第11代皇帝)に仕える
1329年 皇帝トク・テムルに拝謁
内宰司丞、府正司丞を務める
1331年 都指揮使を務める
1334年 同知宣政院事、公平社中政使、同知枢密院使
1333年 エル・テムル亡くなる
トゴン・テムルが皇帝になる
1335年 タンキシュが反乱するが鎮圧される
キプチャク族は一掃、メルキト族が力をもつ
御史中丞・親軍都指揮使になる
バヤンが権力を握り、暴政を行う
1338年 御史大夫を務める
1340年 トゴン・テムルと組み、バヤンを追放する
1340年 科挙を復活させる
1341年 父・マジャルタイが中書右宰相になる
10月にマジャルタイが辞職。トクトが中書右丞相になる
1343年 「金史」、「遼史」、「宋史」の歴史書を編纂
1344年 5月、父・マジャルタイが罪を着せられ甘粛に追放。トクトも辞職
父・マジャルタイが甘粛で死亡
1347年 父の冤罪が明らかになる
1349年 トクトが都に戻り、再び中書左丞相になる
1350年 右丞相に復帰
紙幣「至正交鈔」を大量に発行、黄河の大改修を命じる
1351年 紅巾の乱が勃発。芝麻李たちが反乱を起こし、徐州が奪われる
1352年 トクトは10万の兵で徐州の反乱を鎮圧
1354年 再度、紅巾の乱の鎮圧に向かう
途中、捕らえられ、雲南に護送中に毒薬を飲まされ亡くなる
1362年 トクトの名誉が回復される

 

まとめ

奇皇后のタルタルのモデルとなったトクトの最後は戦死ではなく、毒殺による死罪でした。

エル・テムルやバヤンに操られてきたトゴン・テムルがトクトの独裁を恐れたのです。

国の危機よりも、自身の危機を優先した結果、優秀な臣下を失った元は徐々に滅亡の道を進み始めます。

 

error: Content is protected !!